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はるかわくんの やみ -10-
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咲 伯
《 DATE 2月13日 午前10時12分》
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部屋は鍵でロックされている。
マスターキーを使って入ると、あからさまな舌打ちが聞こえた。
それはそうだ。
家の主人がマスターキーで好き勝手に入れるんだから、ロックのための鍵には意味が無い。
かといって、たとえば、テンキーロックに、などという提案は出ない。なぜなら、ぼくが言い出さないから。
かなり長い間二人でいるが、彼が自分のために何かを提案するところを、ぼくは見たことがない。
冷水(ひみず)はいつも、「ぼくのため」だけを考え、「ぼくのため」だけに提案し、そのための最善の手段をとって、最速で目的を達成する。
冷水はぼくが悪いことをすれば怒鳴りつけるし、落ち度があれば指摘してダメ出しもする。
それでもぼくらの「立ち位置」は変わらない。
ぼくはいつも清潔で安全な高い場所に立っていて、上から冷水を見下ろしている。
冷水はそんなぼくを時々心配そうに見上げながら、地面のうえで、汚れるのを厭わずぼくのために懸命に道を切り開く。
ぼくは昔から自然にそのことを知っているから、冷水に気兼ねせず好き勝手に行動するし、そのせいで派生するさまざまの障害を、冷水はぼくの代わりに次々と排除していく。
そんな冷水の姿にぼくは畏敬の念を抱きつつも、実は、少しだけ高揚感を持って彼を見ていたりもする。
かくいうわけで、冷水に対するぼくのプレッシャーは年を追うごとにどんどん重くなっていくわけだが、ぼくも冷水も何も言わない。(いや、冷水はけっこう悪態をつくが、最終的には冷水が折れてくれることが、ぼくには最初からわかっているのだ。)
ぼくらの関係は、少し奇妙で複雑で、それでいて、楽しくて愛おしい。
日中だというのに、地下にあるこの部屋はいつも暗い。今日は特に真っ暗だ。
壁際の間接照明をつけたら、部屋全体がすうっとした青色になる。
濃紺の壁紙にゆるやかな光の波長が反射するせいだ。
(海の底にいるみたいだな)
いつか冷水にそう言うと、冷水はぼくに対して嬉しそうにした。
そのときのことをぼくはねちこく覚えていて、この色に包まれるたびにその景色を思いおこしては反芻する。
冷水はベッドの上にはいなかった。
「冷水。」
ぼくの声は透き通った部屋の奥に少し反響して消えた。居るはずだ。(だって、舌打ちが聞こえたもん。)
壁際にあるパソコンのプレーヤーが起動したままだったので「再生」をクリックする。 Thom Yorkeが昔ソロで初めて出したアルバムが入っていた。懐かしいな。でも、
「相変わらず鬱っぽい曲聴いてるなあ。」
返事はない。
もう少し進むと、ベッドの上の黒いシーツが引っ張られて、不自然なしわが寄っているのが見えてきた。
なにしろ部屋は薄暗いうえ、ベッドマットもシーツも同じ黒なので、近くまで行かないとわからない。
「見いつけた。」
嬉しくなって言いながら歩み寄り、ベッドと壁との隙間を見ると、壁際の一番奥に妙な置き物があってぎょっとする。
冷水だ。
冷水はなぜか黒いシーツを頭からかぶって座っていて、足が見えていなかったら本当に大きな何かの置き物みたいだった。
冷水は、ぼくがいきなり入って来たものだから、とりあえずベッドからシーツごと降りて、そのままベッドと壁の間に隠れたのだ。
「…なに楽しそうなことやってんの?」
冷水は動かないし返事もしない。
「立てよ。」
ぼくが言うと、冷水はやがて黒いシーツごとゆっくり立ち上がった。
(冷水がぼくの言うことをきくたびに、ぼくはやっぱり少し興奮する。)
黒いシーツを頭からかぶった冷水は、なんだか、洋風のオバケみたい。なんだろう、初めて見る。(かわいい。)
「なんでそんなのかぶってるの?」 「来ないでください。」
やっと冷水の声が聞こえた。いらいらしている。(いつものことだけど。)
「シーツとるよ。」
と、ちゃんと言ってから近寄り、シーツをつかむと、冷水は舌打ちしながら少し後退したものの、壁際に追い詰められてじっとした。
シーツを、わざと探るようにして、もったいつけながらたぐりあげると、まず、細身のジーンズをはいた、冷水のすらりと真っ直ぐな足が見える。
それから、強く握りしめられた両手が順番に現れ、すぐに、冷水の好きな黒色の、体にぴったりとしたシャツ。上に羽織った白い綿シャツが少し乱れて、細い腰をより際立たせている。
ようやく胸、Vネックの襟口から覗く美しい鎖骨。肩のきれいな骨の線、白い首筋、それから、形のいいあご。
そこまでめくって、ちょっと固まる。
(うそ。)
まさか冷水。
さらにゆっくり(おそるおそる)シーツを上げると、ぼくの目を激しく睨みつける冷水の目。
(うわわわわ!)
ぼくは動揺し、思わずシーツごと冷水を抱きしめた。
右手で冷水の頭をぼくの左肩に押し付けながら、駆け上がろうとするテンションを必死になだめる。
(泣いてる!)
確かに泣いていた、と思う。
冷水の目の周りが赤くなっていて、たぶん、そう、鼻も赤かった。
頬には涙の筋も見えた、気がする。
(冷水が泣いてる!)
動揺したのは、見てはいけないものを見た気がしたから。
高ぶるテンションを悟られぬよう、出来るだけ押し殺した声を出す。
「……泣いてるの…?」
冷水はぼくの肩の上でため息を一回ついて、2度、軽く咳払いをした。
「…ちがいます。」
(違わないだろ!鼻声じゃん!)とは思うが、言わない。左肩があたたかい。
「…泣かせたんです」
…泣かせた?
(おお!)
ついに冷水は肩を震わせ始めた。
左腕で冷水をさらに強く抱き寄せる。冷水が必死にこらえる弱い嗚咽を、きちんと感じとりたいから。
軽く斜め下を向くと、冷水の、赤くなっているであろう左耳の端が、ぼくのあごにするりと触れた。
(あああーーー!)
さっき、もっとちゃんと顔を見とくべきだった。
そうしたらまたしばらくは記憶を反芻して楽しめるのに。
試しに冷水を軽く押し戻そうとしてみる。
すると、今度は冷水が背中に腕を回してきて、冷水からぼくに抱きついてきた。
(―― はわ!)
…… ありえない。
テンションがマックスになりつつあり、妙な動悸のせいで、そのことを冷水に気づかれそうでこわい。
「……泣かせたんです……春川を…」
冷水は喉を詰まらせて、声を少し裏返した。
ぼくにとっては垂涎もので、実際顔がにやけすぎて本当によだれをかく勢い。
だがそんなことがバレてはもう冷水に口をきいてもらえないかもしれないので、気持ちを修復しながら頭を整理する。
泣かせた?春川を?
すぐに思い当たる。
(ああそれぼくだわ原因。)
それから、(そういえばぼくはさっきも春川を泣かせたよ。) とも思う。
つい口に出てしまいそうだが、そんなことをしてはもう冷水にご飯作ってもらえないかもしれないので、一度唾を飲み込んでから、ゆっくり囁く。
「…うん。でも、大丈夫だよ冷水。春川は、これで良かったんだ。」
なぜなら、と続けようとして、
「あなたのせいでしょうが!」
突然冷水に罵声を浴びせられ、同時にみぞおちあたりに重い拳が刺さる。
「ぐえ」
あまりの痛さに一瞬息が止まった。
ベッドにうずくまるようにして倒れ込む。
(え~。今怒るかなあ…。)
いいとこだったのに~。
そのまま足をベッドに投げ出して胸をさする。
「…いたいよ冷水…」
「………。」
冷水は深くため息をはいて、ぼくの横に荒々しく腰掛けた。ベッドがきしむ。
冷水を指先で軽くつつく。
「冷水。」
反応が無いので、右腕を思い切り伸ばして、綿シャツの襟を後ろからつかむ。
軽く引くと、冷水は力を抜いて後ろにひっくり返った。
体を反転させて上から顔をのぞく。
冷水は目を閉じて憮然としていた。
立っているときに落ちきれなかった涙が、冷水の意思に反して目じりから一筋こぼれる。冷水はますます憮然としたようだった。
たまらなくなり、右肘で体を支えて冷水の目に口をつける。
それから左手で冷水のあごを軽く持ち上げ、横向きのままキスをした。冷水は黙ってぼくの舌を受け入れた。
最近は、ぼくの奇人ぶりをやっと理解してくれたのか、冷水はあまり抵抗しなくなった。
「なあ冷水。」
冷水のさらさらした黒髪を指でもて遊びながら言う。
「春川を、助けよう。」
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