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2. 青の世界

 四角く切り取られたあの景色が、そのまま目の前に広がっている。穏やかで、全てを包み込むような青の世界。時間とともに表情はさまざまに変化するが、その存在の大きさは変わらない。広大な海を目の前にすれば、自分がいかにちっぽけな生き物であるかを認識する。ちっぽけでも良いんだと、安心できる。 「――――?」  突然周囲の影が濃くなり、頭上から声が降ってきた。視線を上げると、そこには背の高い男が立っていた。 「―――?」  何かを問われているようだが、残念ながら透にはひとつも理解できなかった。もともと英語も得意ではないが、それとも異なる言語だ。ただ、自分の隣を指差しているのを見ると、隣に座っても良いかと訊いているようにも思える。 「どうぞ」  他に何と言ったら良いのかもわからず、指先で示す。するとその男は嬉しそうに笑って隣に座り、こちらに顔を向けた。  色が白く、栗色の髪を短く刈っている。日本人とは異なる鼻筋、薄い色の唇。少し水色がかった、アクアグリーンの瞳が綺麗だと思った。男は自分を指差し、形の良い唇を動かして言った。 「ユージン」  期待を込めた目で、透を見つめる。それは彼の名前のようだ。「ユージン」と繰り返すと、満足そうに頷く。自分も同じように指差しながら名乗ると、ユージンはその音を確かめるように、ゆっくりと発音した。 「トオル」  透き通った瞳でまっすぐに見つめられて、名前を呼ばれる。その響きに、心臓がとくりと音を立てる。ユージンは鞄から緑色の瓶を取り出し、透へ一本差し出した。瓶は暑さのせいでびっしりと水滴に覆われていて、掌からひんやりとした冷たさが伝わってくる。ユージンは蓋を開け、透に向かって瓶を軽く持ち上げた。視線で、どうぞ飲んでと促される。 「ありがとう」  自分では気がつかないうちに、身体はすっかり干からびていたようだ。ごくごくと音を鳴らしながら流し込めば、喉元でぱちぱちと泡がはじけ、口の中で爽やかな苦味が広がる。ひと心地ついて隣を見遣ると、ユージンはまた、穏やかな表情で透を見ていた。彼も瓶に口をつけ、一口二口と飲んでいく。そのリズムに合わせて白い喉が上下に大きく動き、透はそこから目が離せなくなる。  視線に気づいたユージンが、小さく首をかしげる。慌てて視線を逸らすと、横からくすりと笑う気配を感じて、透は余計に恥ずかしくなった。そのまま海を眺め、波の音を聴く。  二人で一緒に住もう、旅行しようと貯めていた金は、ここに来るためにほとんど使い果たしてしまった。それでも、少しも後悔なんてしていない。この景色を目にして、風を感じて、潮の香りを吸い込んで――すさんでいたはずの心は、いつの間にか目の前の海のように、穏やかに凪いでいた。それだけで、ここへ来た価値は充分にあったのだと思う。  ユージンも同じように、海を見つめていた。二人の間に言葉はない。しかし不思議と、今この瞬間に同じ気持ちを共有しているのではないかと、そう思えた。二人だけの静かな時間が、ゆったりと流れていった。  ぐぅぅ……  あまりにも情緒のない音が、静寂の中に響き渡った。透は耳の先まで一気に赤くなるのを感じ、いたたまれなくなって顔を伏せる。 「お腹空いた……」  そういえば、朝から何も食べていない。ユージンは一瞬呆気にとられ、それから大きな身体を揺すりながら笑った。近くを歩いていた鳥が、その声に驚いてばさばさと飛び立つ。  顔をうずめている透の腕に、ユージンが優しく触れる。そのまま腕をとって、透を立ち上がらせた。何か言いながら、親指で海辺に広がる小さな街を指す。 (飯でも食おう、って言ってるのかな)  ユージンはこの異国の地で出逢ったばかりの人間だ。それでも透は、なぜか目の前の人物に既に親しみを覚えていた。二人の感覚が繋がったように思えた、そのひとときのせいだろうか。  透が付いていく意思を見せると、ユージンはそのまま手を取って歩き出した。手を繋いで歩く必要はないのではないかと言いたかったが、言葉で伝えることができない。優しく、包み込むように握られた手を自分から解くことは、今の透にはできなかった。

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