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文月(19)
玄関の方で章子が誰かと挨拶をしている声が聞こえてきた。
どうせ近所の人だろうと、別段気にも留めてもいなかった。
残りの素麺をめんつゆにドボンと浸け、傾けたガラスの器に口をつけて、箸で流し込むように一気に食べていると、向かいに座っている夏香から溜め息が聞こえてきた。
翼は器に口をつけたまま、上目遣いに夏香を見上げる。
「なに?」
「行儀わるぅ」
「ほっとけ」
その時廊下の方から、階段を上る足音が聞こえてくる。
章子の足音にしては大きすぎる気がするとは思っていた。だけど二階に上がったと思った母が、ダイニングに戻ってきたのには驚いた。
「あれ? 今、二階に上がらへんかった?」
不思議に思って訊いた翼に、章子は当然のように普通に答えた。
「ああ、翔太くんや。久しぶりに顔見たなぁ。真っ黒に日焼けしとった」
(……え?)
「……翔太? 翔太が来てるん?」
「そう。翼の部屋に上がってもろたよ」
「え? 俺の部屋に……?」
――二階の自分の部屋。
咄嗟に開けっ放しのパソコンが脳裏に浮かんで、翼は慌てて立ち上がった。
スリープモードの設定はしていないから、多分画面は今、スクリーンセーバーの状態にはなっていると思う。だけどもし、翔太が何気なくマウスを動かしてしまったら……。
慌てて階段を駆け上がる。
別に見られたって、どうってことはない。試合を観に行って、ただ写真を撮っただけだ。
それに翔太は、翼が時々、父親のカメラを借りて写真を撮るのを趣味にしている事は知っている。
だけど今回の試合を観に行くことを、翼は翔太に伝えていない。しかも、撮った写真が翔太しか無いっていう事を知られてしまってはマズイような気がしたのだ。
*
「翔太?」
部屋に入ると、翔太は翼の勉強机の前に立っていた。そして……、パソコンの画面を見ている。
「お、お前、何勝手に見とぉ?!」
ばつが悪くて、それを誤魔化すような笑い混じりの声になった。
「翼、こないだの試合、観に来てくれたんや」
部屋の入口で立ち尽くす翼の方へ顔を向け、翔太は爽やかな笑顔を見せる。
その表情に、翼の本当の気持ちは、翔太には勘付かれてないと感じて、ホッと胸を撫でおろした。
翼はパソコンの画面を見ている翔太の横を通り過ぎ、開け放した腰窓の桟に腰を下ろした。
「高校最後の試合になるかもやったしな。別に用事も無かったし……」
「で? いつから新聞部に入ってたん?」
「……え? 誰が?」
「誰がって、翼が。こないだの一回戦の時、うちのお袋に翼がそう言 うたって聞いたで」
「……あ……」
そう言えば、あの時咲子にそんなことを言った……と言うか、咲子が勝手に誤解しただけだったのだけど。
「いや、あれ……は、おばちゃんが誤解して……。で、説明すんのが面倒やったから、つい……」
しどろもどろに言い訳をすると、翔太はニヤニヤと笑いながら、俯き加減になった翼の顔を覗き込んでくる。
「へぇ、そうなんだ。楽しみにしてたのに、翼の記事」
「あほ、俺が今更部活なんかに入るわけないやろ……」
やけ気味に少し強気でそう返しながら、翼は翔太を見上げた。
クラスも別だし、放課後は部活で忙しい翔太を、近くで見るのは久しぶりだ。毎日の練習で日焼けした肌が眩しい。それに……またちょっと逞しくなった。
シャツの袖から覗く腕の、程よく筋肉の付いたしなやかなラインを目でなぞり、そう思う。
「で? 今日は何しに来たん? 部活引退して暇持て余してるん?」
顔が熱くなるのを自覚しながら、翼は翔太から見えないように、また顔を背けて、話の流れをさり気なく変えた。
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