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葉月(14)

「翼……好きやで……」 「だから、あかんて!」 (キスされてまう!)  翼は、咄嗟に顔の前に手を翳して防ごうとした。  ——さっき、翔太にキスしたばかりなのに。  まだその時の感触が唇に残っているのに。  ただ乱暴に唇を押し付けただけの、一方的なキスだったけど……あれが翔太との最初で最後のキスなのに——  ギュッと瞑った瞼の裏が熱くなる。  大粒の涙が閉じた睫毛の隙間から、はじき出された。  チュッ……と、小さな音が立ち、翳した手のひらに柔らかい感触が触れた。  次の瞬間、背中に回された手に引き寄せられて、翼は水野の胸に顔を埋めていた。  最初に一粒零れてしまえば、もうあとは、ポロポロと涙はとめどなく溢れて、水野のTシャツの胸元を濡らしてしまう。 「……うー、うっ……」  みっともないと思うのに、しゃくりあげる声を我慢できなかった。 「ごめん。もうせぇへんから、泣き止んで?」 「あ、アホ、泣いて……ッ、なんかっ、ない……うっ、うっ」  翼は、水野の肩を両手で押し退けて身体を離すと、顔を背けて、ゴシゴシと手の甲で涙で濡れている目を擦った。 「翼くんて、ホンマ強がりやな」 「…………」  すぐに言い返せなかった。  擦っても擦っても、涙は暫く止まらなかったからだ。  翼の涙が止まるまで、水野は黙って隣に腰を降ろして待っていた。  静かになった公園のどこからか、夏が終わりに向かっている事を知らせるエンマコオロギの美しい声がずっと聞こえていた。  * 「落ち着いた?」  暫くして水野が訊いた。 「……俺は最初から落ち着いとぉよ」  澄ました顔で返す翼に、水野は「よう()うわ」と可笑しそうにクスクスと笑った。 「ごめんな。もしかして、キスした事なかったん?」 「な……っ、そんな事ないわ。高3やねんで? キスくらい……」  水野の質問に、翼は焦ってしまう。  一方的にしてしまった翔太とのキス。あれがキスと呼べるのなら、翼にとっての初めての経験だった。 「へえ? 誰としたんやろ。まさか翔太?」 「ちゃ、ちゃう……」  そんな事、正直に言えるわけがない。 「でも、翼くんは女の子にはできへんやろ? なら誰と、いつしたんやろ。すごい興味あるわー」 「き、キスくらい、女の子とだって出来るわ……」  思わず口から嘘が飛び出してしまう。高3にもなって、経験がないと言うのが恥ずかしかった。  瑛吾や腱とも、そういう話題になると、いつもつい見栄を張ってしまう。  まさか女の子に興味を持ったことがないなんて言えないからだ。  無邪気に遊んでいた子供の頃は、分からなかった想い。これが恋なのだと気付いたのは、やっぱり同じ部活で一緒にいるのが辛くなった中学の頃なのだろう。 「それは意外やな。女の子には興味ないと思ったけどなぁ」  顔を覗き込んでくる水野と目が合わないように、翼は、ふいっと視線を逸らした。 「顔、近いわ。見んな。今度さっきみたいな事したら、絶対シバくからな」

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