56 / 198

葉月(20)

 ——でも……そんな事、出来るわけがない。  好きでもないのに、心は別のところにあるのに、付き合うなんて、水野だって望まないだろう。  それに何よりも、付き合ったとしても、当分忘れられそうにないと思う……翔太のことを。  2階の自分の部屋へ入ると、真正面にある南の窓が開いている。  残暑の厳しい日中に比べて、夜は気温も幾分低くなり、過ごしやすくなった。  時々、窓から心地良いそよ風が入ってくる。  窓辺のカーテンが風に揺れるのを見ていると、先月、翔太がこの部屋に遊びに来た日の事を思い出す。  あの腰窓に座って、一緒にアイスを食べたあの日が、つい昨日の事のように思える。  まだ翔太は、翼の気持ちを知らなくて。翼も翔太にこの気持ちを一生言わないつもりだった。  何も知らない翔太が、翼のソーダアイスを平気な顔をして齧ってしまったあの日。  それは翼にとっては大事件で、ずっと大切に覚えておきたい出来事だった。  少し恥ずかしくてドキドキする、そんな小さな嬉しい出来事を、ずっと積み重ねていけるのなら、自分の勝手な想いは届かなくても良いと思っていた。  一生、幼馴染という関係で翔太と繋がっている事が出来るのならば、それで良いと思っていた。  でも……もう、それも叶わない。  もう絶対に戻れないのだ。  翔太はきっと理解できないだろう。男が男を好きになるなんて、そんな気持ちを。  もしも翔太が、自分の事を避けたりしないで、幼馴染のままでいようと思ってくれていたとしても、必ず心のどこかで意識してしまうだろう。  翔太が自分を見る度に、いくら考えても理解できない事に悩むなんて、翼には耐えられなかった。  ——もう、あの日には戻れない。  もう、これまで通りにいくはずがない。  だから、翔太への想いも、思い出も、翔太のこと全部、忘れなければいけない。  だけど今すぐには、無理そうだ。  真新しいランドセルを背負い、手を繋いで歩いた通学路。  公園の噴水でビショビショになって遊んだあの日。  寄り道をして串カツを買ったあの店。  酒屋の敷地で積んであるビールケースを倒して、店のおじさんに、こっ酷く叱られた事も。  グラウンドに寝転がって、ペルセウス流星群を眺めたあの夜も。  ドングリの木の下で、翼の膝枕で眠っていたあの寝顔も。  すっぱりと忘れて、他の人と付き合うには、翔太の思い出が多過ぎる。  この街にも、そしてこの部屋にも。

ともだちにシェアしよう!