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長月(15)
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「お帰りなさいませ、ご主人様」
恥ずかしすぎて、なかなか言えなかったこのセリフも、いつの間にか自然に言えるようになっていた。
と言うか、恥ずかしいなんて考える余裕もなくて、感覚が麻痺してきたと言った方がいいかもしれない。
開場直後、言われた通りに、翼が教室の前に立ってチラシを配っていたら、あっという間に6組の教室前の廊下に長蛇の列ができてしまったのだ。
客引きなんてしてる場合じゃなくなって、すぐに翼も給仕役に回ることになった。
メイドカフェに来るのは、きっと男ばかりだろうという、翼の予想とは違っていて、客層は老若男女と幅広かった。
「一緒に写真撮ってもいいですか?」
どのテーブルでも必ずそう聞かれる。
「いいですよ。でも、ネットには上げないでね」
ちょっと小首を傾げて可愛く答える、そんなやり取りも、自然にできるようになってきた自分が怖いと思いながらも、翼は意外にも接客を楽しんでいた。
学祭でメイド役をすると決まった時は、気が重かったが、カフェに訪れる知り合いにも、思ってた以上に自分だと気付かれなかった事が、翼の行動を大胆にしていたのかもしれない。
メイド役は最低三人は店内にいるようにシフトを組んでいたが、忙しくなってくると携帯に呼び出しがかかる。
休憩時間も殆ど取れずに、他のクラスの出し物を見に行く余裕はなさそうだなと、半ば諦めていた。
「翼くん、休憩入ってくれていいよ」
一番忙しかった時間を乗り切り、少し客足が引いてきたところで、女生徒が声をかけてくれた。
「ん、じゃ、休憩入りまーす」
そう答えて、翼は衝立で仕切られている厨房スペースへ入って行く。
どうせまたすぐに呼ばれるに違いないから、それなら厨房スペースの隅に置いてある椅子に座って休んでいようと思ったのだ。
「翼くん、ずっと頑張ってくれたし、多分もう終わりまで混まないと思うから、これでシフト終わりでええよ。他のところも見て回りたいでしょ?」
椅子に腰掛けようとしたところで、女生徒が翼を追いかけて厨房に入ってきてそう言った。
「え? ホンマに?」
「うん」
「ほな、もうこれ着替えてもええ?」
終わりまで入らなくても良いのなら、もうメイド役からも解放されるんだと思い、翼の声が明るく弾んだ。
他を見て回るのだって、メイド服でウロウロするのは嫌すぎる。
「それは、あかん。最後にクラスで集合写真撮るから、脱いだらあかんで」
「えーー? 写真なら一杯撮ったやんー」
「それは集合写真て言わへんやろ? ほら早 よ行っておいで。片付けの時間までに帰ってきてくれたらええから」
そう言って女生徒がグイグイと背中を押してくる。仕方なく出口へ向かおうとすると、ちょうど家庭科実習室からアイスの入った箱を抱えて帰ってきた瑛吾とぶつかった。
「なんや、休憩か?」
「うーん、でもこの格好で行かなあかんくて……瑛吾、一緒に休憩行けへん?」
この格好のまま、一人でウロウロするよりは瑛吾と一緒の方が心強いと思ってそう訊いてみたが、やはり期待通りの答えは返ってこなかった。
「悪い、俺、もう休憩終わってしもてん」
「そっか……しゃぁないな……適当に時間潰してくるわ」
肩を落として教室から出ていくと、後ろから瑛吾が声をかけてきた。
「翼ー! 知らん人についていったら、あかんでー」
「アホ! そんなことせーへんわ!」
振り返ってそう返すと、瑛吾は笑いながら大きく手を振っている。
「気をつけて行ってらっしゃーい」
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