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弥生(7)

「翼ー!」  階下から、翼を呼ぶ母親の声がまた聞こえてきた。なかなか降りて来ない翼に少しイライラしているようだ。 「水野のやつ、オレにどうしろって言うねん……」  新幹線の時間を聞いたって、どうにもならないのに。  だけど無意識に時計を見てしまう。────もう時間があまり無い。 (新神戸まで、どの経路で行ったんだろう……)  バスなのか、一番近い、あの歩道橋の側の駅からなのか、それとも地下鉄か。もしかしたら車で新神戸まで送ってもらってるかもしれない。  そんな事を考えながら、体は勝手に動き始めていた。  部屋を出て階段を下り、真っ直ぐに玄関へと向かおうとする翼に、母の声が追いかけてきた。 「ちょっと、翼! どこ行くの。早よご飯食べてって言うとるのに」 「ごめん……ちょっと出掛けてくる」 「出掛けるってどこに? ご飯は?!」 「帰ってから食べるから!」 「翼!────」  呼び止める母の声は、ドアを閉めると遠退いた。  翼は、ひっかけただけの靴を履き直し、取り敢えず一番近い歩道橋の側の駅の方向へ歩き出した。  最初は普通に歩いていた足が、だんだんと速くなり、家を出てすぐの急な下り坂を走り降りていく。 (何してんのや、オレ)  そう思いながらも、足は止まらない。  坂道を下ると、この街の西方面と北方面に通じる幅の広い道路に出る。  視界の先で、渡るのに時間がかかる大きな横断歩道の歩行者信号が点滅している。  その時、海側から暖かい南風が吹いてきた。それはまるで翼の背中を優しく力強く押してくれるみたいに。  翼はその風の流れに乗るように、これ以上ないくらいの全速力で、横断歩道を駆け抜けた。  そのまま前方へ視線を上げると、電車の走る高架橋が見えてくる。  その下を抜けるとすぐに、駅に行く為に一番近道となる螺旋階段の歩道橋がある。  ずっと苦手だった。  人がすれ違うのがやっとの狭い階段。  少しの風でも揺れる、歩道橋。  翼がゆっくりと静かに上っていても、他の誰かが走ったりすればグラグラと揺れてしまうのが嫌いだった。  だけど今は、そんなこともすっかり忘れてしまったみたいに、翼は螺旋階段を一段飛ばしに一気に駆け上っていく。  去年の夏祭り、自分のせいで気まずくなって、話すことも、顔を合わせることすら苦しくなった。もう幼馴染としても、翔太の傍にいることはできないと思っていたから。  でも翔太は何度も自分に〝きっかけ〟をくれていた。〝幼馴染に戻れるきっかけ〟を。  それを、相田とのことを認めるのが、怖くて、辛くて、ずっと会うのを避けてしまっていた。  こんな時になっても、やっぱり翔太の口から聞かされるのは嫌だ。だけど……それでも……。  ──このまま翔太に会えなくなるのは、もっと嫌だ。  

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