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弥生(9)
翔太は、階段の途中から速度を緩め、ゆっくりと翼の目の前まで下りてくる。
(なんでオレが来るかもしれないからって、待っとったんや……)
縮まった距離だけ、顔が熱く火照っていく。
なのに、まっすぐに見つめてくる、鮮やかな切れ長の、その凛とした瞳から目を逸らせない。
つい逃げそうになる翼の視線を、翔太のそれが力強く搦め取り、惹き付ける。
「……さっきの電車に乗らな、新幹線の時間に間に合わんのちゃうんか」
ドキドキしている胸の内を悟られないように、翼はなるべく普通を装った。声が小さくならないように、震えたりしないように。
「別に指定席券取ってないから、何時の電車でもええ」
「えっ? でも、13時10分の新幹線て……」
翼がそう言いかけると、翔太は少し首を傾げた。
「最初から、どの時間に乗るとか決めてへんで?」
それで漸く気が付いた。水野に〝一杯食わされた〟という事を。
(くっそ! 水野のやつ、騙したな)
翔太は、今日東京に行くという事だけを翼に伝えてくれと、水野に頼んだと言う。自分で連絡しても、翼にまた避けられると思ったから。
「今日は、ギリギリの時間までここで待ってるつもりやった」
そう言って、伸びてきた翔太の手が翼の頬に触れ、指先が目尻に残っていた涙を拭う。
「俺が行ってしもた思 て、悲しかった?」
思いがけない翔太の言葉に、瞬間的に顔が熱くなる。それはまるで湯が沸いた時みたいに、シュンッと音が立ったような気さえした。
「さっ、触んなよ!」
恥ずかしくて、翼は、優しく触れてくる手を払おうとする。だけどその手は逆に翔太に掴まれた。
「血豆、治ったんやな」
「あ、当たり前……いつの話や……何ヵ月経ったと思っとぉ……ッ──?」
掴まれた手をいきなり引き寄せられて、翔太との距離がゼロになる。
「ちょ……何しとん……」
慌てて離れようとすると、今度はぐいっと腰を片手で抱き寄せられた。
「俺も、好き」
「──は?」
何か他の言葉と聞き間違えたのかと思った。
だけど次の瞬間、翔太の唇が翼の耳を掠め、更に甘く響くバリトン。
「俺の好きも、こういう事をしたい好き」
驚いて顔を上げると、暖かい眼差しにじっと見つめられた。それは、あの夏祭りの夜、血豆のできた翼の指にそっと氷をあてて冷やしてくれていた、あの時と同じ瞳だった。
「翼のこと、ずっと前から好きやった」
────え?
「嘘やん……」
「嘘やない」
だって、翔太は相田と付き合 うとるやん────
バレンタインの時に、マフラー貰 とったやん────
ちゃんと顔を見て、話しておきたい事があるって言 うとったやん────
オレにそのことを報告したいんじゃなかったん────
翔太の口から直接訊きたくないと、あれほど怖がっていたのに。今は訊きたい事が山ほどある。
だけど言葉が上手くまとまりそうにない。
それに……
──ずっと前から好きやったって、〝ずっと〟って、いつから?────
翔太の匂いや体温を、こんなに近くに感じたのは初めてで、今は〝もう少しだけこうしていたい〟なんて思ってしまう。
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