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弥生(15)
勢いよく乗り込んだものだから、入り口に立っていた翔太の胸に飛び込む形になってしまった。
乗り込んだ途端に、翼の背中を掠めて扉が閉まる。
──危険ですので、駆け込み乗車はご遠慮ください──
間を空けずに聞こえてきた車掌の車内アナウンスは、自分のことを注意しているのだという自覚はあった。
「……何してんの、翼……」
頭の上から落ちてきた、少し笑いを含んだ優しい声音に、なかなか顔を上げられない。
「へへ……」と、照れ隠しの笑い声を洩らしながら、さりげなく翔太から身を離した。
電車はゆっくりと動き出し、駅から離れていく。
「いや……ついでやし、新神戸まで送ってこかなーって……」
本当はそんな事までは、何も考えていなかった。ただ、ただ、〝もう少しだけ一緒にいたい〟と、それだけを思っていたら、勝手に身体が動いてしまった。
そっと翔太の顔を窺うように見上げると、穏やかな眼差しに、全身が包み込まれるような感覚がする。
その表情に、なんだか胸がトクンと波打つ。
翔太のこんな表情は初めて見たような気がしていた。
はっきりと笑っているわけでもないのに。なんだろう……〝幸せそうに微笑む〟って、こういう表情をいうんだろうか。
見ているこちらも、胸が暖かいもので一杯になる。それは曖昧だけど嬉しくて、身体がふわふわする。
そんなことを考えていると、翔太から意外な言葉が返ってきた。
「新神戸やなくて、新大阪から乗ろうかな……新幹線」
「え?」
驚いた声を上げる翼から、翔太は僅かに視線を逸らし、「あかんか……?」と呟くように訊いてくる。
新神戸だと、次の駅で地下鉄に乗り換えて、7分くらいで着く。しかし、新大阪まで行くには、電車を複数回乗り換えるし、早くても50分はかかるだろう。
「オレは、ええけど……時間は大丈夫なん?」
そう問えば、翔太は小さく頷いた。
「夕飯までに寮に着けばええから……」
そう言って、窓の外へ視線を移す。もう電車は地下を走っていて、景色なんか見えないのに。
「新大阪の方が、東京行きの本数多いやろ? 知らんけど……」
真っ暗な窓の外を見ながら、翔太が続けた言葉に、翼は思わずクスッと小さい声を零した。
「……知らんのかいな……」
電車を2回乗り換えて、二人で新大阪方面へと向かう。
大阪へ近づくにつれて、乗客も増え、景色が徐々に変わっていく。背の高いビルが翼達の住む街よりも、多く感じる。
生まれ育った街から、あまり遠くまで出かけることは、旅行以外では今まで殆どなかった。大阪ですら、行ったことのない場所はたくさんある。
こうして翔太と二人きりで、長い時間一緒に電車に乗るなんてことも、今までなかったんじゃないかと、今更ながら気がついた。
翔太はこれから、自分の見たこともない、もっと広い世界へ一人で行くのだなと思うと、新大阪までのたった50分ほどの短い距離が、翼にとっては、一生忘れられなくなるだろう大切な旅のように思えた。
そして、翔太も……自分と同じように〝名残惜しい〟と思ってくれたのだろうか。
7分で着く距離よりも、50分以上かかる距離を選んでくれた翔太の気持ちが嬉しくて、そして胸が締め付けられる。
そんな複雑な感覚に、翼は思わず、隣に立っている翔太の着ているパーカーの裾をそっと握った。
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