5 / 11
【いつまでもここにいて】 ゆまは なお
「碧馬、20歳の誕生日おめでとう」
「ありがとう、リュカ」
「おめーとー、ママ」
「ありがとう、マッティア」
両頬にキスをされて、碧馬はくすぐったくて肩をすくめた。
「これで碧馬もようやく成人したのか」
「て言っても、ここではとっくに成人してるだろ」
ここの成人年齢は16歳だ。しかし碧馬の生まれ故郷では20歳が成人だと知って、この日にお祝いをしようと言いだしたのはリュカだった。
それはもう3年も前の話で、碧馬は忘れていたのだがリュカは覚えていた。
覚えてくれていたことがとても嬉しい。
この3年間のことを思うと、碧馬はいまだに夢を見ているみたいだと思う。
碧馬は3年前、突然この地にやって来た。
西校舎の急な階段で足を滑らせて手すりを掴んだはずだった。
それでも体重を支えきれず転がり落ちたのは覚えている。
次に気がついたら、森の中に倒れていた。
これは夢だろうか?
頭を強く打って意識を失くして夢を見ているのかも。
ってことは、俺はもしかして死にかけてるのか?
ここはいわゆる三途の河?
どこにも河らしいものはないけれど…。
恐る恐る体を起こして、周囲を見回した。
一体どこなんだろう?
木漏れ日がさしてとても温かい。おかしい。今は1月のはずだ。
いや、夢だからおかしくないのか。
碧馬は学ランを脱いだ。シャツとベストでちょうどいい。
立ち上がろうとしたが、足首に痛みが走って立てなかった。
夢なのにこういうことだけは現実的なのか。
階段から落ちた設定はそのままらしくて、上靴を履いている。
顔をしかめて足首を確かめた。ねん挫したのか腫れていた。
どうしたらいいんだろう。
これが夢なら、自分の意識が戻るまでここで待っていればいいんだろうか。
それとも本当は打ち所が悪くてもう死んじゃったとか…?
いやいや、まさか!
自分の想像の怖さにぶるっと体を震わせたとき、後ろから音が聞こえた。
はっとそちらに顔を向ける。
がさがざと茂みをかき分ける音がして現われた人物に碧馬は息を飲んで目を見開いた。
目の前にいたのは、大きな熊だった。しかも服を着ている。
何をどう考えていいかわからず、碧馬は声もなくその場にへたり込んだままだった。
「※※※※! ※※※※※!」
何か話しかけられたが、意味はわからない。
強い語調からあまりよくない感じを受ける。
ここにいてはいけなかったんだろうか。
いやそれより服を着た熊が話してるっておかしいだろう!
「※※※※※※、※※※※※※!」
「やめろ、俺に触るなっ」
熊の手が伸びてきて、碧馬は身を竦めて叫んだ。
殺されるっ。
とっさにそう思い、草の上を転がって逃れる。
熊は目を瞬いた。抵抗されるとは思わなかったという表情に見える。
その時、横からまたガサガサと音がして、すこし小柄な熊が現れた。
やはり服を着ていて、リュックのようなものを肩にかけている。
碧馬を見て、首を傾げた。思いがけないものを見てきょとんとしたという雰囲気だ。
ここの熊には人のような感情があるらしい。一体、どうなっているんだ。
体を起こして、足首の痛みに耐えて立ち上がる。
走れそうにないが、逃げられるだろうか?
熊は何か会話を交わし、碧馬を見た。
うなずいて後から来たほうが木の向こうへ去っていく。
なんだかわからないが、とにかく怖いし良くないことが起こりそうな気がして、碧馬は後ずさった。
「あんたら、なんだよ? ここは日本じゃないんだよな?」
話が通じるかわからないが、思いついたことを話しながらそっと後退する。
熊はのしのしと遠慮なく碧馬に近づきひょいと手を伸ばして碧馬を捕えた。
殺されるんだ、とぎゅっと目を閉じたが、痛みは襲ってこない。
おそるおそる顔を上げると、そのまま荷物のように担がれて森の中へと連れて行こうとする。
「やめろよ、離せって」
元いた場所から離れたくなくて碧馬は暴れた。
帰り道がわからなくなる気がして、ここから移動したくなかったのだ。
拳にした手で思わず熊の背中を殴りつけると、熊が足を止めた。
はっとして手を止める。
どうしよう、殴っちゃったよ。今度こそ殺されるのか?
青ざめていると乱暴に地面に下ろされた。
足首の痛みに耐えきれずその場に崩れ落ちる。
そして驚くことが起きた。
目の前の熊の姿がゆらりと揺れたかと思うと、一瞬後には大柄な体格の男が立っていた。
「※※※※※」
碧馬はもうパニック寸前だった。
熊が話したかと思うと人に姿を変えたのだ。
夢なら早く醒めてくれ。
必死に願うが、目の前の男はにたりとタチのよくない笑みを浮かべて、碧馬の衣類に手を掛けた。
「な、なに、なんなの、あんた。人なのか?」
男は答えず、碧馬のシャツとベストを一気に引き裂いた。
びくっと体が跳ねた。男が覆いかぶさって来た。
殺されるのだと思い込んだ碧馬は腕を突っ張ったが、そんなものは何の抵抗にもなりはしない。
男がズボンと下着もはぎ取った。
靴下と上靴だけになった碧馬は、呆然と自分の上にいる男を見あげた。
目が合った男はにやりとたちの悪い笑顔を浮かべた。
ここに至って、男が自分を殺そうとしているのではないことに気づいた。
「え、おい、俺は男だからな!」
もしかして女だと思って連れ去ろうとしたのか。
かわいいと言われ続けてきた女顔を誤解したのかもしれない。
でもほぼ全裸なのだから、間違いだとわかったはずだ。
すこしほっとしたのも束の間、男は無遠慮に碧馬の胸から下腹部までをなで下ろした。
そして胸の突起を指先で押しつぶす。
「おい、わかっただろ、俺は男だって言ってんだよ!」
体をねじろうとするが、開いた足の間に大柄な体を入れられてそれはできない。
碧馬がじたばたする様子を見下ろしていた男はにやにやと下卑た笑みを浮かべて、腕から袖を抜き上半身を押さえつけた。
そのまま胸や腹を撫でまわされる。
「おい、何してんだよ」
「※※※※、※※※※※」
何か卑猥なことを言われたのだと口調でわかった。
碧馬の顔から血の気が引いた。
男でも構わないのだ。
気を失いそうになるが、そんな場合じゃない。
大きな手が恐怖に縮こまった性器を掴み、なにか確かめるように握られた。
「やめろ、バカ! 男相手に何してんだよっ」
この男はここで碧馬を凌辱するつもりなのだと悟って、碧馬は本気で怒鳴った。
そこへ声がかかった。
驚いて見上げると、さっきのリュックを持った男がいた。
一体、これは何なんだ。
「※※、※※※」
「※※※、※※※※※」
さっきは熊だったが、こちらも人になっている。
男に組み敷かれた碧馬を見てにやにやと楽しげな笑いを見せる。
思わず逃れようと暴れた。
つかつかと寄ってくると、碧馬の頬をいきなり張った。
「嫌だっ、離せって」
伸びてくる手から逃れようと碧馬は必死に暴れた。
でも無理な話だ。すでにマウントを取られて大きな男二人を相手に逃げ出せるわけはなかった。
どれだけ叫んでも助けなんか来るはずはない。
ここはどこか違う世界だ。
パニックになりながらもそれだけは理解した。
男の手や舌が体中を這いまわり、悔しさと憤りで涙があふれた。
足を抱えあげられて開かれ、碧馬は「嫌だーーーーーーっ」と絶叫した。
うるさいとばかりにまた頬を殴られ、ぐったりしたとき、急に声がした。
「そこで何を騒いでいる?」
落ち着いた低い声だった。
碧馬を嬲っていた男たちが動きを止めた。
体を起こして何か説明している。
男にさえぎられて、声の主の姿は見えない。
え、いま日本語だった?
「迷い子を無理やり連れ去るのは禁止されているはずだな? その子はどこの部族だ?」
「※※※、※※※※※、※※」
二人が代わる代わる何か話しているが、碧馬は必死に身をよじって体を起こして叫んだ。
「俺、こいつらに無理やり連れて行かれそうなんです」
ちっと舌打ちした男がまた頬を叩こうとしたが、さっと伸びてきた手がそれを阻んだ。
「もうやめろ。これ以上やったら俺がお前たちを拘束する」
「※※、※※※」
「この子は嫌がっている。お前たちの処分は後で沙汰があるだろう」
男二人はしぶしぶ碧馬から身をひいた。
手の主の全身が目に入って、碧馬は今度こそ気を失いそうになる。
そこには不思議な生き物がいた。
下半身は馬で、上半身は人だった。この姿は知っている。絵本や映画の中に出てきた。
だけど伝説の生き物だ。現実にはいないはずの生き物だ。
ケンタウルス、そう神話の中で呼ばれている。
ブルーとシルバーの混ざったような色合いの長い髪に、明るいグリーンの瞳が煌めいている。
こんな美しい生き物を見たことがなくて、碧馬はぽかんと彼を眺めていた。
彼の瞳が何か考え込むような色をたたえて、じっと碧馬を見つめている。
「おい、大丈夫か? お前は人族か? こんな森にいたら危険だぞ」
厳しい声でそう言って、たくましい両腕で碧馬を立ち上がらせた。
「まだ子供なのか、家はどこだ? 家まで送ってやろう」
びっくりしすぎて何も言えずにいると、彼はいくらか表情をやわらげた。
「どうした? どこか痛むのか? どこから来た?」
「ええと、日本から…? いえ、ここはどこですか?」
碧馬の言葉を聞いた彼が眉を寄せた。
探るような目線になって、じっと碧馬を見つめた。
「お前は心話を話すのか? 口に出した言葉と一致しないな? 人族ではないのか?」
「? ごめんなさい、何を言っているのかわかりません」
「お前の言葉の意味は分かるが、口にしているのは違う言語だな」
そう言われて碧馬も相手の口を見た。
確かに口の動きと聞こえる言葉が一致していない、
というよりも彼の言葉は耳ではなく、直接頭の中に語りかけてきているように感じる。
耳で聞いているのではないのだ。
「ええと…。たぶん、俺は異世界に飛ばされたんだと、思うんです、けど…」
自分が口にした台詞の突拍子のなさに自分でも怯んでしまうが、相手は、ふむと考え込んだ。
そして碧馬の全身にさっと視線を走らせた。
自分がほとんど全裸なことを思い出して、カーッと頬が熱くなった。
靴下と上履きだけの間抜けな格好で森の中に立っているのだ。
裂かれた衣類はもう着られる状態ではなく、どうしようかと焦っていたら、少し後ろに学ランが落ちているのが見えた。
その視線に気づいた彼がさっさとそれを取りに行って、肩から掛けてくれた。
かろうじてお尻くらいまでは隠れる。
「ひとまず、落ち着ける場所に行こうか」
「あの、あなたは誰ですか?」
「ああ、悪い。自己紹介もしていなかったな。俺はリュカだ。この森の自警団をしている」
自警団が何をする組織かわからないものの、悪い人ではなさそうだと碧馬はリュカを見上げた。
「俺は井ノ又碧馬です」
「イノマタアオバか。とりあえず背中に乗れ」
「え、でも…」
「足を痛めているんだろう? 歩くのはよくない」
下着もつけていないのに人(?)の背中にのっていいものかと迷って、碧馬は裂かれたシャツを拾い上げて腰に巻きつける。それからおそるおそる背中に乗る碧馬を、リュカは面白そうに見ていた。
腰に手を回すと、リュカの肩にきれいな馬のタトゥーが浮かんでいるのが見えた。
連れて行かれた自警団本部では、チュニックと下ばきとズボンをもらって着替え、どうにか人心地がついた。
長のガルダを筆頭に数人に囲まれてここに来た経緯を訊かれ、碧馬は拍子抜けするくらいあっさり異世界人と認定された。
「異世界人…」
まるでラノベかゲームの世界だ。
そしてどういうわけだか碧馬の心話はリュカにしか通じず、ここの人たちが話す言葉も碧馬には通じなかった。
唯一例外がリュカだけで、彼の言葉は心話として聞こえる。
一体どうしてなのか理由はわからない。
「過去にもいたらしいな」
リュカが通訳するのに食いついた。
「そうなんですか? その人、どこにいます?」
「もう50年以上前の話だ。亡くなっている」
「亡くなった? 帰れなかったんですか?」
「そうだな」
「帰る方法はありますか?」
必死の問いに周囲の人々は困惑した表情になる。
「ここでは誰も知らない。大きな街に行けば知っている者もいるかもしれない」
「誰に訊けばわかりますか?」
「そうだな…。神殿の神官かあるいは魔道士、呪術師…。いずれにしても滅多なことでは会えないな」
ここは獣人たちが多く住む辺境地で人族の少ないエリアらしい。
彼らの言う街までは馬でも20日はかかるという。
最速の天馬なら2日で行けるというが、天馬の知り合いなどいない。
そして街まで行けたとしても、何のつてもない碧馬がそんな人に会うためにはどこでどんな手続きをすればいいかもわからない。
途方に暮れて、碧馬はぼんやり椅子に座りこんだままだ。
その間に大人たちの間で会話が交わされ、リュカが優しい目をして言った。
「ひとまず、イノマタアオバの身柄は自警団で預かることになった。言葉も通じないし、外で暮らしていくのは無理だろう。獣人たちの中には気が荒いものもいるし」
その言葉で熊の男たちに乱暴されかけたことを思い出す。
思い出すと恐ろしくて身が竦んだ。ここは安全なんだろうか?
「ここで?」
「ああ。3階に個室がある。一部屋をイノマタアオバにやるから使うといい」
「俺、ここで何をしたらいいんですか?」
ただで置いてもらうわけにもいかないだろうと訊いてみた。
「イノマタアオバは日本では何をしていた?」
「高校生だったけど」
リュカは何かわからないといった表情になる。
「ええと、学生です」
「学生…、学者の卵か? それとも占星術師か?」
この世界では学生という身分は一般的ではないらしい。
「いえ、普通の学生…」
碧馬が小中高と学校に通い、さらには大学まで行く場合もあることを説明すると、みんな驚いた顔になった。
「22歳まで学校に行くって?」
「そんなに長く何を学ぶんだ?」
どうやらかなり日本とは事情が違うようだ。
「学校ないんですか?」
「あるが、10歳から12歳で卒業する。仕事をせずにその先に進むのは占星術師か呪術師か魔道士か、いずれにしても師に弟子入りして学ぶものだな」
その説明に碧馬はさらに途方に暮れた。
日本の一般的な高校生だった自分がどうやってここで生活したらいいんだろう。
今日の食事だって泊まるところだってどうしたらいいのかわからない。
野宿したらまた襲われたりするんだろうか。
碧馬の不安を読み取ったようにリュカが申し出た。
「うーん…。とにかく言葉が通じないからな。掃除とか食堂の手伝いはできるか?」
「はい、俺にできるなら何でもします」
「じゃあひとまず言葉を学びながら、ここで雑用や手伝いをしてくれるか?」
団長のガルダがそう決めて、碧馬は自警団の住込み雑用係となった。
「ガルダ、イノマタアオバに手を出すなよ」
「どういう意味だ?」
「イノマタアオバは俺の番だ」
断言したリュカに面白そうにガルダは眉を上げた。
「どうしてそう思う?」
「なによりタトゥが出たし、心話が通じる」
心話を話せるものは少ないが、話せる場合は誰が相手でも話せるものだ。
碧馬のように特定の相手にだけ通じるものではない。
そして運命の番に出会えた時に出るというタトゥが右肩に浮かんだ。
自分自身でも初めて目にしたそれは馬の形をしていた。
「まだ弱いが香りもする」
微かだけれどΩのあまい香りが確かにあった。
「そうなのか?」
ガルダは驚いた顔で首を傾げた。
「運命の番が異世界人ってこともあるのか」
「ああ、俺も驚いた。でもあの子を見たときから、胸の中がざわざわするんだ」
「でもあの子、まだ子供だろ?」
「いや、17歳って言ってた」
「は? 17歳? もう成人してるのか」
ガルダが目を見開く。成人年齢は16歳だが、碧馬は14、5歳に見えた。
「いや、成人はまだらしい、アオバの世界では」
自警団に来るまでの道で、リュカはいくつかの質問をしてみたのだ。
「おまけに、あの子には自分がΩだという自覚がない」
「は? 自分の性を知らんのか?」
「というよりも、どうやら男女の区別しかない世界らしい」
ガルダは眉を寄せてリュカを見た。
「男女の区別だけ? α、β、Ωがいないのか?」
「そうらしい」
ガルダの困惑した様子に、リュカもうなずいた。
「でもあの子、Ωの気配がしたよな?」
「ああ、気をつけてやらないと。発情期はまだらしい」
リュカは森の中で交わした会話をガルダに伝えた。
「17歳だって? 発情期はまだなのか?」
振り向いたリュカの質問に碧馬は目を丸くした。
「発情期? 人には発情期はないでしょう?」
「発情期がない? まだということか」
「まだっていうか、人の発情期はないっていうか。…ある意味いつでも発情期?」
困惑した返事に、リュカはしばらく考えた。
「もしかして、アオバは自分の性を知らないのか?」
「は? 俺は男だけど」
「それは知ってる。第2の性だ」
「?」
「お前はΩだろう?」
「それ何ですか?」
「…Ωの自覚がないのか」
「えーと、なんの話?」
リュカがこの世界には男女以外に第2の性、α、β、Ωの3種があり、アオバがΩ男性であることを告げるときょとんとしていた。
「それで、俺がΩだとどうなるの?」
第2の性などと言われてもまったく理解できない戸惑った様子だ。
「発情期が来るとΩ男性は抑制剤を飲まなきゃならない」
「抑制剤?」
「発情すると理性で抑えるのが難しいんだ」
「……?」
どういう意味なのか全くつかめていない顔を見て、リュカは一旦それ以上説明するのを諦めた。
一目見たときから碧馬が自分の番であることは気づいたが、碧馬にはその意識もなく、それどころか自分の性すらわかっていない。
碧馬がどういう世界で育ったのか知らないが、あまり動揺させるのはよくないだろう。
そう判断したのだった。
次の朝、1階に下りてきた碧馬は、待っていたリュカに不思議なものを渡された。
「これをつけておけ」
「何これ? 首輪?」
「いや。お守りのようなものだ」
「お守り? 首を護るの?」
「そうだ。襲われた時、うなじを噛まれないように」
リュカは真剣な顔だ。
「襲われる?」
「昨日、アオバはΩだと話しただろう?」
「うん」
もっともその意味は碧馬には理解できていない。
「Ωの特性としてαやβを誘惑しやすいんだ。特に発情期にはそれが著しいが、それでなくても事故が起きないようにこれをつけていて欲しい」
「事故?」
何に気をつければいいのかさっぱりわかっていない碧馬に、リュカは根気よく説明した。
「うなじを噛まれるとその相手と番になるんだ。アオバの意思とは関係なく」
「え…? 番?」
「そうだ。一生、その相手としか性交できないし、恋愛も結婚もできない」
一体何を言っているんだろう。
性交? 恋愛? 結婚?
ぽかんとする碧馬にリュカは、さらに丁寧に説明をしてくれる。
「昨日、熊族に襲われかけただろう」
「うん」
「熊族は嗅覚が鋭いんだ。だから通常ならわからない微かなΩの香りに気がついて、あんなことになった」
あの二人は熊族のα男性で、碧馬が放つ微かなΩの香りで誘惑されたのだという。
「誘惑なんてしてない!」
憤慨する碧馬にリュカは真剣に言い聞かせた。
「わかっている。でもこれはΩの特性で、アオバの意思とは関係ないんだ。もし意に染まない相手に襲われてうなじを噛まれたら番にならざるを得ない。そうならないために、これをつけておいて欲しいんだ」
生生しい話に碧馬は顔色を青ざめさせて、じっとリュカを見上げた。
「無理強いされて番になるのは不幸だ。発情期だと妊娠する可能性が高いし」
「妊娠…?」
無理強いされるってレイプって意味か?
しかも番だの妊娠だの、一体何の話なんだ?
碧馬は眉を寄せて低い声を出した。
「あのさ、俺は男だよ?」
「ああ」
「妊娠なんかできるわけないよね?」
「Ω男性は妊娠できる。少なくともこの世界では」
リュカの返事に呆然とする。
ぐらりと眩暈がしそうだ。
「ともかく、そういう訳だから、これを着けていてくれるか?」
とても納得できる話ではなかったが、横で話を聞いていたガルダまでもが、絶対に必要だと言い張ったので、釈然としないながらもそのお守りだという首輪を着けてもらった。
「これにはケンタウルスの魔力が溶かし込んである。そう容易には噛みきれないから、心配するな」
何をどう心配したらいいのかも理解できないまま、碧馬は心もとなくうなずいた。
色々な常識があまりに違いすぎて、どう受け止めたらいいのかわからなかった。
二人のいう事を鵜呑みにしたわけではない。
碧馬は自分がΩだとか発情期があるとか妊娠できるとか、実はこれっぽっちも信じていなかった。
ただ昨日、実際に熊族の男に襲われたし、ここの習慣や考え方なら尊重したほうがいいだろうと思ってうなずいただけだった。
レイプはまだしも、男同士で番になって結婚、妊娠…?
そんなこと、できるわけないって。
碧馬の思考を遥かに超えた世界観だ。
頭を抱えてため息をつく。
リュカはお守りを着けた碧馬に満足そうに見つめて微笑みかけた。
日々は穏やかに過ぎて行った。
碧馬は掃除や食堂の手伝い、畑や馬の世話などを任され、その合間に文字やここでの習慣を教えてもらい、徐々にここの生活になじんでいった。
人懐こい碧馬は普通の日常会話ならできるようになるまで、それほどかからなかった。
自警団には森で起こる様々な事件が持ち込まれ、いつも忙しい。
もともと明るく前向きで人の役に立つことが嬉しいという性格の碧馬だから、自警団の雑用をあれこれ頼まれても全く苦痛ではなかった。
それにリュカが毎日顔を見に来てくれることが、とても励みになっていた。
新しい言葉や習慣を覚えるたびに碧馬を褒めてくれる。いつも励ましてくれる。
時おり日本を思い出して、寂しくなって馬屋で一人こっそり泣いていたら抱きしめて側にいてくれた。
いつの間にか碧馬はリュカが来てくれるのを楽しみにするようになった。
時には一緒に食事をしに出かけたり、市場の買い物にも誘ってくれる。
リュカの好意はストレートで碧馬を好きだと最初から隠そうともしなかった。
周囲にも当然バレバレだったが誰も気にした様子はない。
この世界では男女でも同性同士でも構わないのだ。
信じられなかったが、男同士の番や子連れの家族を目の当たりにしては、もう否定することはできなかった。
常識の違いが実感できるようになったころ、碧馬も自分の気持ちに気がついた。
もしかして、俺もリュカが好きなのか?
リュカが来ると嬉しくて、顔を見たらドキドキして、頭を撫でられたりハグされるとカーッと顔が熱くなる。
やさしく頬にキスされることもある。
そんなとき碧馬はどうしていいか分からず、真っ赤になるだけだ。
そんな碧馬をリュカは優しい瞳で見つめてあまく微笑む。
するとますます心臓はバクバクと音を立てて、碧馬はどうしていいかわからなくなる。
どうしよう。俺、リュカを好きなのかも。
自覚したけれど、碧馬はその気持ちを抑えようとした。
好きになってもどうしようもない。
だって相手はケンタウルスだ。人じゃない。
異変は突然だった。
自警団の裏には畑があって、そこでトマトを収穫していた時だった。
朝からなんか少し熱っぽいかも…と思っていたが、急激に体温が上がった気がした。それが発情期だとは碧馬にはわからなかった。
ふらつく足を建物に向けたとき、突然足元が崩れた。
今まで感じたことのない熱さと体のむず痒さに戸惑っていると声が聞こえた。
目がかすんでよく見えない。
「ここか、なんだ人族の子供じゃねーか」
「発情してんな、俺らが相手してやるよ」
その言葉で、この状態が発情なのだと気がついた。
近づいてくるのは大柄な男二人だ。
抑制剤は常に身に着けるように言われてペンダントに入れて持たされていたけれど、とても出せる状態ではなかった。
見知らぬ相手はαなのだろう、ぐっと碧馬を引き上げるとどこかへ連れて行こうとする。
「嫌だ、離せっ」
「んなこと言って、そんな状態で収まらねーだろ?」
「ほらほら、俺らが相手してやるから」
「嫌だってば、離せよっ」
「ほっそい腕だな。ほらいいから来い」
暴れる碧馬をなんなくあしらい、引きずられて畑から連れ出された時、とても甘くていい香りが辺りに漂った。
「おい、その手を離せっ」
「なんだ、お前」
息を弾ませたリュカが立っていた。香りの元は彼だった。
「その子の番だ。お前たちもαなら、首輪に俺の魔力が入れてあるのがわかるだろう」
その言葉に、男たちはちっと舌打ちして碧馬を突き飛ばした。つんのめって転びかけるのをリュカが受け止めてきつく抱きしめた。ほっとして涙があふれる。
「お手付きなら発情期くらい管理しとけよ」
男たちはそう捨て台詞を残して去っていった。
「少しだけ待ってろ」
リュカは碧馬を抱き上げ、すごい速さで走りだした。
触れ合った体が熱くて心臓がドクドク鳴って、碧馬はもう何がどうなっているかわからない。
「体が熱いよ…、リュカ…」
「わかってる」
はっと意識を取り戻した時にはベッドの上で全裸になって、リュカに体中を愛撫されていた。
大きな手が荒々しく体をたどるのにものすごく興奮する。
乳首を舐められて、息が上がる。そのままちゅうと吸い付かれて高い声が出た。
「あ、あっ…、やあっ。それ、いや……っ」
体が融けそうな快感がさざ波のように次々にやって来て碧馬を翻弄する。
完全に勃起した性器を包み込まれると思わず腰が揺れた。
リュカに両手を回して、必死にしがみつく。
自分がどうなるのかわからない。
経験のない体の熱さも快感の深さも未知の性交も怖かった。
それなのに体は快楽を貪ろうとする。
背中を撫でおろした手が尾てい骨をたどってその奥にまで伸ばされた。
そっと触れた指はなぜかぬるりとしている。
「よかった、ちゃんと濡れているな」
そう言われて、自分のそこが濡れているのだと自覚した。
驚いているうちに、するりと指が入って来た。
奥まで探られて碧馬はいやいやと首を振る。
「なに、これ…」
「おかしなことじゃない。Ωはこうなる」
戸惑う碧馬をなだめながら、リュカの指がさらに奥を暴こうとする。
「やっ…、あ、あ、ああっ…。リュ、カ…」
何が何だかわからないうちに、あっという間に絶頂に導かれた。
びくびくと全身を震わせながら射精する。
挿し入れられたリュカの指を締めつけてしまい、その違和感と存在感に戦いた。
射精を終えても体の熱さは引かなかった。
それどころか、まだ足りないと言わんばかりに疼きがひどくなった気さえする。
αの精をその身に受けないと発情が治まらないと知らない碧馬は戸惑うばかりだ。
涙でいっぱいの目でリュカを見あげる。
リュカは今まで見たこともない険しい顔で、射抜くように碧馬を見ていた。
…ああ、リュカも発情してるんだ。
自分に対してそうなっていると知って、体の奥深くが蠢いた。
その時になってようやくリュカが人型を取っているのに気がついた。
雄々しく存在を主張するものを目にして、無意識に手が伸びた。
触れた性器は熱くて固い。どうしたいかは本能でわかった。
「これ、欲しい…」
意識しないままこぼれた言葉に、リュカが声もなく唸って碧馬の足を開かせ、一気に貫いてきた。常にない荒々しい動きだったが、碧馬はそれを受け入れた。
「ああっ、あ、あ…、やぁ、ん…あーーーー」
ものすごい快感と充足感。背骨を駆け上がっていく感覚に碧馬は泣き叫んだ。
奥までリュカに何度も突き上げられて、めちゃくちゃに揺さぶられ、めまいがしそうなほどの快感にまた射精する。
真っ白になった視界に映るのは、シルバーブルーの髪の色だけだった。
「アオバ、アオバ…」
リュカが苦しげな声で呼ぶのを聞いた。
力強い律動に引き上げられるようにまた昂ぶっている。
噛みつくようなキスをされて、口腔を舌で舐めまわされた。
息が苦しい、でも離れたくない。
ぐっとひときわ強く叩きつけるように奥を突いたリュカが動きを止めた。
体内でびくびくと震えたのが伝わり、中でどくどくと精液が出されたのを感じる。
碧馬も三度目の絶頂に持って行かれ、いっそう強くあまい香りが漂った。
しばらく二人とも荒い息をついているだけだった。
碧馬はまだ何をしたのかよく理解できずに呆然としていた。
リュカが両肩に抱えあげていた足を下ろして、ようやく自分がリュカとセックスしたのだと思い至った。
「あ、あの、俺…」
口を開いたものの、何を言えばいいかわからずに口ごもる。
「悪かった。碧馬があんまりかわいくて、理性がぶっ飛んだ」
苦い口調だった。
「本当はもっと優しくしたかったのに」
何もかも初めてだと知っていたから、本当はじっくり時間をかけるつもりだった。
でも発情した碧馬の泣き顔と声に煽られて理性なんて一瞬で飛んだ。
「好きだ、アオバ」
「俺も、俺もリュカが好き」
夢中で答えたら、まだ繋がりを解かないままだったリュカがぐっと頭をもたげた。
体内に感じる存在感にぞくりと肌が粟立つ。
「あ、ちょっと」
「ああ、まだ治まらない。アオバもまだイケるだろう?」
すでに三度も達したのに、まだ奥が疼いていてリュカに反応している。
そんな自分に碧馬は戸惑った。
こんなことは今までなかった。
「俺の体、どうなってんの?」
「発情期だ。αの精を受ければ一時的に治まるが、半日くらいでまたこうなる」
驚いた。発情期って本当にそういう状態になるんだ。
「大丈夫だ。5日ほどで治まる。それまでここにいればいい」
「あの、抑制剤は?」
「飲む必要はないだろ? 俺がいるのに」
雄の顔したリュカに言われて、碧馬は今さらながら真っ赤になった。
「アオバはかわいいな」
キスをされて、うっとりと目を閉じた。
湯を使ってさっぱりしたところで食事を出された。
初めてのセックスでぐったりした碧馬は、シャワーも着替えもリュカに手伝ってもらわないと無理だった。
テーブルの上にはリュカが作ったシチューとパン。
リュカはかいがいしく碧馬の口元までスプーンを運んでくれる。
恥ずかしくて手を伸ばそうとしても、リュカは楽しげに微笑んでいるだけだ。
仕方なく口を開く。甘やかされて嬉しいけれどやはり恥ずかしい。
もぐもぐと口を動かしているとリュカが話し始めた。
「アオバは俺の番だ。森で最初に会ったときに分かっていたけど、アオバは何も知らなかったから言いだせなかった」
「どうして最初に会ったときに分かったの?」
「ここにタトゥがあるだろう?」
右肩を指して言う。馬のタトゥが浮かび上がっている。
「これは番に出会ったときにだけ出る。俺はアオバに会うまで、自分のタトゥを見たことがなかった」
「そうだったんだ」
「それに甘い香りがするだろう?」
「それは俺じゃないよ、リュカだよ」
「いや、番はお互いの香りをいい香りだと感じるんだ」
「そうなの? 今日はいつもより強いけど」
「発情期だからな」
そう言われると恥ずかしい。外を歩けなくなりそうだ。
いや、そもそも碧馬はΩだから発情期は外を歩いたりしちゃいけないんだっけ。
不用意に出歩けば犯されるともう理解している。
「番同士以外は発情期でもかすかに感じる程度だから平気だ」
「そうなの?」
こんなに部屋中たちこめている香りが他人にはわからないなんて不思議だった。
「と言ってもαにはわかるし、嗅覚の鋭い熊族とかも。だから気を付けないといけない」
森の中でしょっぱなに熊族に襲われかけたことを思い出す。
リュカが怖いことを思い出したのを忘れさせるようなキスをしてきた。
息もできないくらい深く深く口づけて、唇を離すと真摯な表情になった。
「次はここを噛んでもいいか?」
首筋をやさしく撫でながら、リュカが問いかけた。
湯を浴びるときに外したので、首には何も着けていない。
それが番としての求婚の言葉だと、碧馬もすでに知っている。
「うん、いいよ」
「本当に?」
いいよと言ったのに、リュカはちょっと驚いた顔になる。
「俺もリュカが好きだよ」
「俺と結婚してくれるのか?」
「…うん」
自分が男からプロポーズを受けるとは想像したこともなかったが、そうはっきり言われて嬉しかった。
「ここで一緒に暮らしてくれるか?」
「うん」
「…ずっと?」
「うん」
「日本には戻らない?」
「うん」
答えた途端に強く抱きしめられて、りゅk本当に訊きたかったのは最後の質問だったのだとわかった。
「ここにいるよ、リュカの側に俺もいたい」
「よかった」
心から安堵した顔で、リュカは碧馬に口づけた。
それから半年後、碧馬は妊娠した。
何もかもが未知の体験で、一体どうなるんだろうとものすごく不安だったが、妊娠期間3ヵ月ほどで子供は無事に生まれた。
出産直後はケンタウルスの姿だろうと教えてもらっていたが、その通りだった。
「ヒト型を取れるようになるのは半年後以降だろうな」
生まれてきた子供はリュカそっくりの髪の色と目の色で、ぷるぷると震える脚で必死に立とうとする姿がとてつもなく可愛かった。
子供はマッティアと名付けられ、αだろうとリュカは言う。
Ωだったら色々と面倒だと今では碧馬も理解しているので、αだったことにほっとした。
もうすぐ2才になるマッティアはいたずら盛りで、碧馬を困らせることも多いが、ママが大好きで、毎晩「一緒に寝てね」と小さな手で碧馬の腕をきゅっと掴む。
つないだ手の温もりを感じながら、碧馬は幸せで胸の中がほこほこになる。
そしてマッティアが眠ると、今度は大きなケンタウルスが碧馬の腕を掴んでくる。
力強い腕に抱きしめられて碧馬はやはり幸せで微笑む。
「碧馬はすごいな」
「何が?」
「まったく違う世界から来て、3年で言葉も覚えて俺の番になって子供まで生んでくれて。碧馬、本当にありがとう」
「俺のほうこそ、リュカに見つけてもらえてよかった」
口づけあったら、体が熱くなるのはあっと言う間だ。
リュカの重みを受けとめて、碧馬はふわふわと温かな気持ちで目を閉じた。
完
ともだちにシェアしよう!