「＿＿＿хйфж…йшчм」 少し離れた場所にいたため、明確には聞き取れなかったものの僕は引田の体を抱き締めながら身を屈めたサンが何事かを囁きかける声が聞こえた。 しかしながら、それから暫くしても何も異変は起こらない。 不安を抱えながら、ちらりと横目でミストの様子を伺うと彼もまた僕以上に不安げな表情を浮かべながらサンの様子を見ていた。 ふと、僕とミストの行動が少し違うことに気付いた 僕は未だに、グッタリと横たわる引田に対して不安げな視線を向けているのに対して、ミストは未だに倒れたままの引田にというよりも、どちらかというと相変わらず体から桃色と黒が混じった幻想的な炎を身に纏い引田を抱き締めている点だ。 (何故……ミストはあんなにもサンを気にかけているんだろう＿＿何か、特別な理由でも……) などと、僕が些細なことを気にしている内にサンがまた新たなる行動を起こす。 つい先程よりも僅かながらに、血色がよくなってきた引田のピンクがかった唇へと迷うことなく口付けしたのだ。 すると＿＿＿＿、 「ちょっと……くすぐったいんだけど＿＿サン……」 皆が見守っている中で、無事に目を覚ました引田は自らに何が起こっているかなど明確には理解していなさそうに、普段通りの少しばかり勝ち気な態度ながら頬を真っ赤に染めて愛しいサンの首もとを引き寄せてからぎゅっと抱き締め返すのだった。 引田の元へ駆けよるタイミングを完全に逃してしまった僕らは、ニコニコしながら二人を暖かく見守りホッと胸を撫で下ろした。 ＊ 「それで……何はともあれ、これからどうするわけ？今の話しを聞く分だと――もう、ふざけたあのアズキとかいう敵は退治したわけだよね？じゃあ、あとはこの鬱陶しくて陰気な世界から出るだけなわけだけど＿＿＿＿」 まだ本調子とはいかないまでも、サンの暖かみのあるキスによって目覚めた引田は、それからミストによる回復魔法を受けて徐々に元気を取り戻しつつあった。 そして、正に今――僕や誠＿＿いや、この宿屋にいる者全てが疑問に思っていることを口にした。 確かに引田が言う通り、バグ因子の【アズキ達】を退治したところで完全に問題が解決したとはいえず、ホッと胸を撫で下ろしている場合ではないのだ。 あと、ひとつ「どうやってこの白銀世界から無事に脱出するか？」という問題が残っている。 「あ……あの――」 その時、遠慮がちに声を出す者がいた。 《三人のダイイチキュウ人》のうちの一人で、両腕には、かつて【アス・イムリク】として【アズキ】から操られ利用されていたペットのトカゲを大事そうに抱えながら少し緊張した面持ちで此方を見つめている。 「と、とりあえずは……この建物から出てみたら如何でしょうか？その……助けていただいて生意気なことを言うのは失礼ですけど、何事も行動してみなければ何も変わらないと思うので……」 「…………」 確かにトカゲの主人でもある彼の言う通りだと思いながらも、中々行動に移せなかったのは引田がまだ本調子ではないということが気にかかったせいだ。 荒れ狂う吹雪の最中、引田がまたしても危機に曝されるようなことがあったら如何しようと僕だけでなく三人のダイイチキュウ人以外の一行は気にかかったに違いない。 とりわけ、サンに至っては眉間に皺を寄せて険しい顔をしていた。 (でも…………彼が言う通り、このまま宿屋にいても……何も変わらない……いったい……どうしたら……っ……) などと、僕が悶々と頭を抱えながら悩んでいる時だ。 ある異変が、宿屋に起きた＿＿＿＿。 「あ、危ない…………っ……！！」 誰かの叫び声でハッと我にかえった僕は咄嗟に窓の方を見た。すると、外の白銀世界から人間の片手程はあろうかという氷塊が飛んできて窓へと勢いよく当たったのだ。 当然ながら、窓は破れ――その破片が割と窓の側にいた僕の方へと向かって襲いかかってきた。 いち早く、その異変に気付いた誰かが僕を突飛ばしたため無事だったものの、宿屋の外から降り注ぐ巨大な氷塊は降り止む気配がなく木造の宿屋の建物へと深刻なダメージを与えていく。 ミストが張ってくれた結界内に逃げ込みながら、これ以上宿屋内にいても仕方がないと判断した僕らは外に広がる白銀世界へと再び足を踏み入れるのだった。 ＊ つい先程まで吹雪が降り止まなかったのと同じように、灰色に濁りきった天から振る幾多もの氷塊は降り止む気配がない。 ミストの張っている結界も、先程までの疲労が重なってしまっているせいなのか脆くなってしまっていて、もはやいつ消えてしまってもおかしくはない。 ふいに凄まじい轟音が鳴り響き、皆がほぼ同じタイミングで音のした方向を見てみると、先程までいた筈の宿屋の建物が天から降り注ぐ巨大な氷塊の襲撃によって崩壊してしまっていた。 (ど、どうして……こんなに急に……氷塊が天から降り注いできたんだろう……っ＿＿＿＿これから僕らはどこに向かって歩けばいいのか……) などと疑問に思ったところで、宿屋の建物が崩れ落ちてしまった以上――ひたすら前に進むしか道はない。 結界内は今のところ無事なものの、それ以外の場所は容赦なく天から降り注ぐ巨大な氷解が当たってしまっているせいで、真下に広がる氷河を覆い隠している氷にヒビが入っていつ穴が出来てもおかしくはないのだ。 慎重に、慎重に一行は前へ前へと歩み続けていく。 ＊ そのまま歩き続けて、どのくらい経っただろうか＿＿＿＿。 ふと、僕は目の前に広がる光景に異変を感じた。 天から降り注ぐ巨大な氷塊は未だに降り止む気配がないのだが、僅かながらに灰色の空から一筋の光が差し込み、尚且つ照らされている場所があるような気がしたのだ。 ふと、共に歩き続ける仲間の様子を確認してみたけれど誰も気にしている素振りさえ見せない。 自分の気のせいだろう、とその考えを振り切った僕だったけれど――どうにかして忘れようとしても、どうしても気になった。 『こっちにおいで、おいでよ＿＿＿＿』 と、姿が見えない誰かによってその場所に誘われているような気がしたのだ。それと同時に、その場所を照している光の正体が何なのか気になって天を見上げてみる。 まるで、姿見えぬ誰かの目玉のように真ん丸な青白い月が灰色の夜空の裂け目からぽっかりと浮かんているのだ。 あの妙に気になる場所を照らしているのは、月の光だと分かった僕は、もう我慢が出来ずに気がついた時には行動に移していた。 「ち、ちょ……っ……ちょっと……優太くん……いきなり何しちゃってるわけっ……！？」 「ゆ、優太……っ……！？」 「なっ…………何をしているんだ……この愚か者が……っ……！！」 「ユウタ……ッ……ミストの結界なしにそんなことしたら――危ないよ……っ＿＿＿＿」 仲間達の怒鳴り声や焦燥しきっている声が聞こえても、僕は何とか氷河に落ちないように細心の注意を払いながら灰色の夜空に浮かぶ月の光に照らされた場所まで辿り着いた。 そこには、透明の氷塊が落ちていた。 しかしながら、降り止む気配のない幾多もの氷塊とは違って数倍は小さなもので、触ってみても冷たくはないのだ。 それを手に握り締めながら、仲間の元へ戻ろうとした時――今までにないくらいに途徹もなく巨大な氷塊が目の前に落ちてきたせいで、僕の体は氷河に落ちてしまった。 凄まじい波に揺られながら、必死に沈まないように抗う僕の目に映った光景は同じように必死に落ちゆく仲間達の姿＿＿＿＿。 何とか、激しい波に揺られながらも仲間達の元へと戻った僕だったが抵抗も虚しく【バグ因子のアズキ】のように氷河へと沈んで行ってしまう。 (このまま……沈むなんて……嫌だ……嫌だ……っ＿＿＿＿) 仲間達とはぐれないように互いに手を繋ぎながらも、沈み行くのは止められない。 しかしながら、僕はまたしても異変に気付いた。 先程、僕の手に握り締めていた小さな氷の塊が、光り輝いているのだ。 そして、その氷の塊からは――氷河のある箇所の一点を目掛けてピンポイントで光を放っている。 その一筋の光が差し示すのを救いの道であると信じて、僕らたち仲間は共にそこへと泳いで行くのだった。 ＊