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ミストの異変
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「ミスト…………!?」
覚束ない足取りで、ふらふらと此方へ近づいてきたかと思うと――ふいに、彼は僕の前で足を止める。
その行動を不思議に思い、おそるおそる震える声で尋ねる優太を尻目に他の三人――特に彼と同種族であるサンは普段のミストの様子と今の様子とに対して違和感を覚えていた。
そもそも、ダイイチキュウのニンゲンに比べてミラージュに暮らしている者達は元々【怒り】【妬み】【憎しみ】といった感情は抱きにくく、そういう負の感情抱くとするならば、転移してきたダイイチキュウのニンゲンに影響を受けるか、もしくは魔物の影響を受けるかして意図的に増幅させられるかしかない。
ましてや、ミストは森の中で神聖とされるエルフ族の生まれである。
これはサンに聞いたことだけれども、エルフ族は多数いるが、その中には生まれつき魔力が高く洗練された魔術学を身に付けている者もいる。
そして、長老に認められたその者達は汚らわしいとされている【負の感情】を抱くことはおろか、心中で考えることすら今まで生きてゆく中で禁忌とされていたらしい。
その者達が成長するにつれて、成長途中で入学せよと命じられる《魔術学校》の授業で叩き込まれ、その教えは【極めて正しいこと】として選ばれたエルフ族達の心を蝕み続けてきたのだ。
かつて、サンと二人きりで話した夜の光景が閉じた瞼の裏にこびりつく。
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『今まで、貴様…………いや、今までお前達には黙っていたが――お気楽なナギや半端者な私などとは違い、ミストの心には深い闇がある。深い哀しみと喪失感が存在し渦巻いている。ミストはそれを隠して取り繕って、生きているのだ。そこで、貴様に問う。ユウタよ、仲間のうちの一人が心の奥底では苦しんでいるというのに何もできない私は……愚か者だろうか?』
サンと初めて二人きりになった夜____。
顔を盗むといわれていた恐ろしいスティール・フィッシュという魔物の群れと共闘し
た直後、僕が皆がいる寝床へと戻った後で寝る準備を整えていた最中のことだった。
『ミストの心には…………どんな闇があるの?』
本当に聞いてもいいのだろうか____と、その時の僕は、考えていた。
そもそもダイイチキュウのニンゲンであれ、ミラージュのエルフ族であれ――いずれにしても軽々しい気持ちで他人の心の闇の部分を知ろうとするのは気が引けてしまう。
しかも、それが本人の口からではなく他の仲間であるサンの口から告げられているのだから尚更のこと____。
けれども、僕はそれと同時にミストが哀しみや不安といった負の感情を無理やりに自らの心の奥底に留めておくことを目の当たりにすることしかできないのを長い間見続けていたサン(多分ナギもだ)も苦しんでいることに気付いた。
だからこそ、多少戸惑いの色を浮かべたものの【ミストの心の闇】について尋ねたのだ。
『ミストは貴様らがここに来る前に母代わりだと言っても過言のない一人きりの姉を亡くしている――そして、そのきっかけを作ってしまったのは自分のせいだと、今までずっと気に病んでしまっているのだ』
あの夜、神妙な面持ちでサンは僕だけに答えてくれた。
おそらく、その後にサンの口から【ミストの過去】について他の仲間達に語られた形跡はないだろう。
(でも、どうして____サンは僕だけに大事な仲間であるミストの悲しい過去の話を教えてくれたんだろう____)
そんな疑問が僕の頭をよぎった直後、妙にゆっくりとした動作で此方へと歩いてきていたミストが動きを止める。
その背後には、ミストの姉を象ったであろう【石像】が、ぴったりとついてきていて、それから少しすると、まるで母親が幼子に対してよくするように両腕で優しく彼の体を抱き締める。
しかしながら、ダイイチキュウで見かけていた母親から子供へと愛情を象徴する、その動作だけで、すんなりと終わった訳ではなかった。
見ただけでは微笑ましいと印象を受ける抱擁を終えた【天使の石像】は、その直後に僕らの想像を遥かに越えるような異常ともいえる行動をしてきたのだ。
ひび割れ、鋭く尖った爪が目立つ左腕でミストの体を捉えたまま――片方の手を自らの胸の方へ近付けていき、更にはその腕を容赦なく突き刺したのだった。
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