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【さあ、タタカイの時間だよ】②
ミストの声をした【赤ん坊】が、トゲだらけの禍々しい杖を一度振りかざすと、まるで魔法が解かれてしまったといわんばかりに《ミストそのもの》の声を発し続ける。
徐々に【赤ん坊】は、再び黒い鎧を纏う禍々しい姿へと変化していく。
その様子を見てしまうと、どうしても本能的に《これから戦う》という意思が徐々に削がれていってしまうのは、やはり敵が純粋無垢なイメージのある赤ん坊の容姿をしているせいだろうか。
地面に仰向けに寝そべり、小さく紅葉のような黒い手を伸ばしつつ満面の笑みを浮かべている、その様はまさにダイイチキュウの日々で何度か見かけていた《ニンゲンの赤ん坊》と大して変わりないように見えてしまう。
しかし、僕のそんな油断じみた心境を悟ったかのように【赤ん坊】は突如として、キッとつり上がったギラギラと敵意に満ちた両目を向けてくると今度は満面の笑みを浮かべるだけでなく甲高い声で笑い始める。
すると、突如として辺り一面が真っ暗になった。けれど、それは一瞬の出来事で、それからすぐに明るい光が戸惑いを隠せずにいる僕の目を刺激してくる。
まるで、舞台に立っているかのよう____。
暗闇に差し込んできた光は、スポットライトのように僕らが立っている場所の真上を煌々と照らしている。
役者であれば、さぞかし嬉しいことなのだろう。
でも、僕らはキャラクターに魂を吹き込む役者ではないし、何よりも今は不気味としか言い様のない【敵】が目の前にいる。
不気味な笑い声は、今もなお続いていて――一向に止む気配がない。
それどころか、一番始めに笑い声をあげた時から比べて徐々に音量が大きくなっていっている気がする。
(こ……っ……攻撃しなくちゃ……このグリモワールの魔術で____)
幸いなことに、僕が武器として選んだグリモワールには(たとえ敵であったとしても)然程大きなダメージを与える魔術が記されている訳ではない。
つまり、おかしくなったミストを元の状態に戻して救いたいものの、彼の体を傷つけたくはないという僕の思いにうってつけな魔術が記されているため使わない手はないということだ。
しかも、このグリモワールには本来のミストが使っていたような魔力が込められた杖を使用して唱える高度な魔術を唱える必要はない。
魔法の言葉を発することでその魔力がグリモワールに込められて自動的に発動することができるのだ。
そのため、エルフ族のように生まれつき魔力が高くなく、更にそれを専門的な場所で学ぶ必要のない僕は、この方法に賭けるしかない。
(えっと……あった、これだ……っ____)
「∽・βεΨΟΛ……」
僕が唱えたのは、変化の魔術だ。
これならば、元々のミストを傷つけることはないだろうと思った。グリモワールには魔力制限がかけられ暫く動かなくなる場合があると、まるで薬を飲む時の副作用に関する注意書きのような文面が記されていたけれども、元々エルフ族であるミストであれば回復魔法を自らにかけることも可能だろうと考えての策だった。
これで上手くいけばいい、と____
ひたすら、心の中で願い続けていた。
でも、現実はそんなには甘くない。
僕がグリモワールの魔術を唱えた直後、赤ん坊の姿である【赤ん坊】は笑うのも泣くのもピタリと止めて、そのまま両目を閉じて眠りについてしまった____
____かのように、見えた。
すっかり安心しきった僕が慌てて駆けより、おそるおそる【赤ん坊】を覗き込んだ直後、突如としてカッと両目を大きく見開き、再び黒板を爪でひっかいたかのような不快な笑い声をあげながら今度は僕の額へと小さな指を突き付けてくる。
そうして、僕は――いや、僕ら一行は【赤ん坊】が身に纏う凄まじい影にズブズブと飲み込まれていってしまうのだった。
意識が遠退いていく最中、かろうじて僕の目に飛び込んできたのは自らの頭を震える両手で抱えながら、呻き声をあげ続ける【赤ん坊】の姿だった。
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