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【魔王の溺愛】あおい 千隼

「母さん。じゃあ僕いってくるね」  粗末な家に鈴を転がしたような快活な声が響く。  それは高くもなくて低くもない、とても耳触りのいい花の音のようだ。 「気をつけてねジュリオ。あなたはそそっかしいから、母さん心配だわ」  つぎに響くのは優しい女性の声。ドアのまえに立つ少年、ジュリオ・ビアッティが母親の声だ。 「もう心配性だなあ、母さんは。城までの道のりなんて何度も歩いたことあるし、充分にまわりを見て向かうから大丈夫」 「でも最近は貴族の馬車が多く走っているし、このまえだって馬車を横切ろうとした男の子が貴族の怒りを買って切り捨てられたのよ」  心配は無用だと朗らかに笑うジュリオ。けれども母親が危惧するのも無理はなかった。  話に上がった通り、これまで見かけなかった貴族の馬車が往来を走るようになり、幼い子供が犠牲になるという事件が多発している。死角から飛び出しはねられてしまったり、貴族の気分を害したという理由で命を奪われたり。  ジュリオの暮らすブロックはいわゆる貧民街で、富裕層の長である貴族の馬車が道を走るなどなかった。それがどうして我が物顔で通行するようになったかというと、ひとえに貴族街を馬車が行き来するのは景観を損ねるからだ。  それだけではない。紳士が道の端を歩き、婦人が犬の散歩のため背後の馬車に気を遣うことがあってはならない、そんな理不尽な事案は多くの貴族に支持を得た。布令が出されると、馬車の通行は貴族街から貧民街に移ったというわけだ。 「隣町の子だね、ほんとう酷い話。でも心配しないで、僕ちゃんと気をつけるから」 「そうね、ジュリオも今日で十六歳だものね。わかったわ」  外へとつづく扉のまえに立ち、今にも駆けだしていきそうな我が子を引きよせ抱きしめる母親は、「おめでとうジュリオ、これで大人の仲間入りね。楽しんでらっしゃい」と愛おしそうにジュリオの頭を撫でるのだった。  1  年に一度だけ、貧民層の若者に城の広場が解放される。  十六歳で成人を迎えるのに身分など関係ない、みな平等に祝福されるべきだ。そう考え城の広場で成人の儀を行おうと決めたのは王子で、枢機卿(すうききょう)より言葉を給わり洗礼を受けることも可能だ。  ジュリオは今日で成人を迎える。昨日より楽しみにしていた儀だ、待ち遠しさからすでに心は広場に着いていた。  城に招かれるというのにぼろを着て行くわけにはいかない。息子の晴れの日だ、少しずつ家計を切り詰め貯めた金で買った生地やレースで母親が仕立てた上等な服は、色白なジュリオにとてもよく似合っている。  城に向かう道すがらジュリオは身なりを見下ろすと、「母さんありがとう」と心で感謝をする。  ジュリオには父親がいない。幼い頃に父親を亡くし、以後は母親がひとりで息子を育てた。幸いなことに近隣の住人はみな優しい者ばかりで、働きに出るあいだジュリオの面倒を見てくれたのだ。  多くの者から愛情を受けたジュリオは、今日まですくすくと育ち気立てのよい若者となった。  流れる柳眉とながいまつ毛に覆われた夢見るサファイアの瞳、少女のように繊細な鼻梁と熟れた桃を思わせるぽってりとした口唇。薔薇の頬は艶やかに雪肌を染め上げ、うりざね型のおもてを彩っている。  さらりと垂れるながい髪は絹のように美しいトゥーヘアードで、青いリボンでひとまとめに結ばれている。  少しばかり伸び悩む身長と華奢な体躯も相まって、ジュストコールを羽織っていなければジュリオはしばしば女性と間違われてしまう。けれど今日は立派な紳士だと胸をはり、軽やかな足取りで城までの道をジュリオは気高く進む。 「うわあ、すごい綺麗なひとたちだなあ……」  城に近づくにつれ、招待に預かろうと列をなす若者のすがたを目にしたジュリオは感嘆のため息をつきそうごちる。女性も男性もみな一様に華やかで、まるで楽園の花畑にでも迷い込んだかのようだ。  華麗な様子に気を取られるジュリオ。けれどそれが仇となり迫りくる不運に気がつかなかった。あっと肝を冷やしたときすでに遅し、ジュリオの眼前で貴族の馬車が急停止する。  恐怖に身が竦み動けないジュリオのまえに、馬車から赤い法衣で身を包んだ男が降り立つ。 「その者、怪我はないか」  小柄なジュリオから見れば、巨大なヒグマのように思える体躯をした壮年の男。今日の儀で若者に祝福を与えるため、教会より城に向かう途中だった枢機卿だ。  固まるジュリオに声をかけるが、一向に返事がなくて枢機卿は気を悪くする。危うく馬に踏み潰されるところだったのだ、声さえ凍ってしまうのも無理はない。しかしながら身分の低いジュリオが司教を無視するなど許されない。  胸躍りうつむくジュリオの(おとがい)に手をかけると、おもてを上向かせて尚も声をかける。 「返事をせんとは舌でも抜かれたのか。どれ質問に答えよ──」  そこまで口にした枢機卿だったが、今度は自身が絶句をする番だった。  卑しい生まれの貧相な少年は、しかしながら目を瞠るほどに美しい。枢機卿は男色家、特に麗しい少年に目がないと噂される。そうとは知らないジュリオは司教の怒りを買ってしまったと、震える声で小さく「ごめんなさい」と謝った。  このままでは隣町の少年みたいに切り捨てられてしまう。ジュリオは内心で焦るが、頤だけではなく今度は腕まで取られてしまい逃げだすことも叶わない。肌を脂汗がつたい、ジレや下着を軽く濡らす。  舐めるように少年を眺めていた枢機卿は、下卑た笑みを浮かべるとジュリオに提案をする。 「いや、私こそ悪かった。恐怖に足が竦んでは城まで歩けぬだろう、どうだ私の馬車で送ってやろうではないか」  そう話すなり枢機卿は、ジュリオを引きずるように馬車へと押し込めようとする。  恐怖が頂点を極めたジュリオはつぶらな瞳から涙の粒をこぼし、呪文のように何度も「ごめんなさい」と謝ってばかり。これから処刑場にでも連れていかれるのではと、ジュリオは勘違いをしているのだ。  あと少しで馬車へ投げ込まれてしまうところで、怖気に震えるジュリオを枢機卿から助ける幸運が舞い降りる。 「おお、なんだこの化け物はっ! ええい、どうにかしろ──」  突如として空から現れた大きな黒い鳥が枢機卿を襲う。まるで城門を守るガーゴイルのようなそれが、馬車に乗り込もうとする赤い法衣めがけ飛びかかってきた。恐々と身を庇いながら枢機卿が御者に助けを求める。  手綱を放し御者席から急ぎ降りると、御者は枢機卿を連れ怪鳥の鋭い爪が届かない路地に逃げ込む。その様子を見届けた怪鳥が、今度は客車で震えるジュリオに狙いを定めた。 「ひいっ──おおおお願、お願い……助け……っ」  大きなくちばしがジュリオの頬をかすめ、どうか食わないでと身を縮めて乞う。けれどいくら経っても怪鳥はジュリオを襲わず、矯めつ眇めつ何かを吟味しているようだ。  そしてようやくか開かれたくちばし。もうだめだと絶望し、ぎゅっとまぶたを閉じるジュリオの頬を生温かな感触がつたい、とうとう意識を手放してしまった──────  2  つぎに意識を取り戻すと、そこは大きなベッドのうえだった。  確か僕は馬車に押し込められ、それから大きな鳥に食われたはず。それがどうしてベッドなんかに寝ているのかと、ジュリオは大いに混乱した。けれど今は場所など二の次だ、もっと大きな問題がある。  ゆっくりと上体を起こしたジュリオは、身体を触診して無事を確かめる。どうやらどこも怪我などしておらず、五体が欠けるような事態は免れたようだ。ほっと息をついたところで、はたと不可思議なことに気づく。  目覚めた場所に気を取られていて気づかなかったが、無事を確かめるのに着衣を脱がなかったのだ。つまりは一糸まとわぬすがたであり、裸体を晒して眠っていたことになる。 「うそ……僕の服……」  いつの間にか裸となっていた自身の痴態よりも、苦しい家計にもかかわらず切り詰めて仕立ててくれた母の愛情がこもった服を失ったことのほうが、よっぽどジュリオにはショックが大きかった。  母親の案じた通りだと今更ながらにジュリオは後悔する。  そそっかしいから周りにはよく注意しろと言われたにもかかわらず、馬車の存在に気づかず司教の怒りを買い、あまつさえ怪鳥に襲われてしまうという結果となったのだ。  僕の命は自分だけのものではない。ジュリオはうつむき懺悔をする。  もしも命を粗末にするようなことになれば、これまで育ててくれた母親を悲しませることになる。それにジュリオの幸せを願う多くの者が、悲しみに暮れ傷つくのだ。  今日一日でどれだけ謝っただろう。またジュリオは小さく「ごめんなさい」とつぶやくと、ふたたび青い瞳に涙を浮かべるのだった。  どれくらいそうしていたのか、しばらくすると遠くから扉の開く音が耳に届き、はっとジュリオは顔をあげる。  僕を助けてくれたひとかもしれない。それで様子を見にきてくれたのではと、後悔の念を拭うとジュリオは居住まいを正す。けれどそこで、ふたたび裸体であることを思い出し、羞恥でその場に(くずお)れてしまう。 「目が覚めたようだな。どうだ、腹は空かないか」  褥に顔を伏せるジュリオに、深い闇のような落ち着いた声音が問う。  おもてをあげるのは恥ずかしいが、けれど命の恩人に対しいつまでも返事をしないのは失礼だ。母親から最低限のマナーを教わったジュリオは、感謝の言葉は相手の目を見て話すものと学ぶ。  薔薇色の頬をさらに赤く染めながら、声の主に視線を向けて感謝を伝える。 「ああ、あの……危ないところを助けていただいて、ありがとうございました。それで、その、僕いま……ははは裸で……──」  みる見る身体が赤く染まってゆく。言葉をつまらせながらも、自身が裸体であることを訴えようとするジュリオ。けれどもつづく言葉が出てこない。それはなぜかというと、ようやく視界に定まった人物があまりにも美しかったからだ。  意志の強そうな眉と、鳩の血のように紅いルビーの瞳。貴族的な鼻梁は男らしく、肉感的な口唇は口角が上がり色気がただよう。削げた頬とながく尖った耳が印象的で、ひたいで光る大粒のルビーに目が奪われる。  精悍なおもてにかかるながい髪は、烏の濡れ羽色をした見事なものだ。逞しい長躯を包む瑠璃色をした着衣は、それがジュリオのような貧しい生まれであっても上質なものと分かる。  もしかして、ここは王宮ではないだろうか。現にジュリオは城へ向かう途中だったのだ、怪鳥に襲われているところを城の兵士に助けられ、枢機卿の計らいにより保護されたとしてもおかしくはない。  今この場が王宮内の一室だとして、意識を失ったジュリオが贅沢なベッドで寝かされていたと考えるのが自然だ。けれど枢機卿は罰を与えようとしていたはずだとジュリオは首をかしげる。  百面相でもしていたのだろう、ジュリオの様子を黙り見守っていた長躯の男が、くつくつと笑いながら疑問を解いてやる。 「訳が分からんといった様子だな。いいだろう、教えてやる。おまえは善を盾に人間界を蔓延る、薄汚い司教に純潔を奪われるところだったのだ。そこへ出くわせた俺が、おまえの危機を救ってやったというわけだ」  泰然とものを言う男の説明を受けたジュリオは、意味が分からず軽く混乱を来すもの助けられたことに違いはないと謝辞を述べ、そのついでに着衣の行方を訊くことにした。 「ええと、あの、危ないところを助けていただいて、ありがとうございました。ご厚意に感謝をします。それから僕の服はどこに……とても大切なものなので、どこにあるのか教えてもらえませんか」 「ああ、おまえが着ていたみすぼらしい服か。それなら俺がおまえを連れ帰ってきたあと脱がせて処分をした。なに心配するな、もっといい服を着させてやる」  ジュリオの質問に淡々と答える男。けれどその言葉はジュリオを叩きのめすには充分だった。母親が仕立ててくれた服を貶されたばかりか、あろうことか男は処分したと言ったのだ。  わななくジュリオ。双眸に涙を溜めると、男にすがり尚も願う。 「どうか……王様、僕の服を返してください。捨てた場所を教えてもらえたら自分で取りに行きます。お願いです、どこにあるか教えてくだ──」 「うるさいっ!」 「ああっ」  腰にすがりこうべを垂れるジュリオを手で払いのけると、冷淡な態度で声を荒げた。はずみでベッドに倒れるジュリオ。その様子を睨みつけるように見下ろす男。  褥に頽れおえつを漏らすジュリオの腕を掴むと、ぐいとひき上げ男が耳もとでややさく。 「俺に逆らうな、下等な人間が。服を探してどうする、逃げる気なのだろう。服などやらん。裸で過ごせばいい」  最後に「どうせおまえはこの部屋からは出られん」と言い残し、男はジュリオをベッドに放り投げて部屋から消えた。  3  ジュリオが部屋にとじ込められて三日になる。  実際には時間の概念がなく、眠りから覚めたのが三回という理由で勝手にそう思っているだけのこと。部屋には窓がなく時計もないのだ、時間だけでなく今が昼なのか夜なのかすら分からない。  ジュリオの願いに腹をたてすがたを消して以来、男は部屋に現れない。初対面で恐怖を心にすり込んだジュリオにとって、彼が現れないのは願ってもないこと。しかしながら彼と会わなければ、ジュリオは一生この部屋から出ることができない。  今頃ジュリオが戻ってこないと母親が心配しているはずだ。運が良ければ役人が捜索してくれているかもしれないが、貧民層の者がひとり行方不明になったところで人員を割く奇特さなど期待できない。  それにジュリオは城の王と思しき男に軟禁されているのだ、王族の不道徳を公にして解放するなど万にひとつもないだろう。きっと役人ぐるみで隠ぺいするに決まっている。  誰ひとりとしてジュリオに味方などいないのだ、こうなれば自力で逃げ出すしか方法はない。つぎに男がやってきたら、どれだけ怒られても帰してもらえるよう願おう。機嫌が悪くても怯まずに食い下がってやる。  ジュリオは虎視眈々と機会をうかがう。服が戻ってこなくても涙を呑み諦めよう。けれども絶対に母親の許に帰らなくては。顔を合わすのは怖い、けれど彼が来てくれなければ困る。なんとも皮肉な話だが、ジュリオは男に頼る他ないのだ。  起きているあいだ、ただベッドで横になっていたわけではない。暇をもて余したというのもあるが、部屋のどこかに抜け道でもないかと探っているのだ。  ジュリオの過ごす部屋は客室なのか、大きなベッドとテーブルにチェア、書物の並ばない書架があるのみ。見た目を重視しているのか、窓のない壁に意味もなくカーテンが下がり滑稽だ。扉はひとつ、いつも鍵がかかっている。  日に三度その扉は開かれ、城の使用人がジュリオに食事を運んでくる。一度だけ使用人の目を盗み、テーブルセッティングをしている間に扉を抜けだそうとしたが、施錠がされているのか開くことは叶わなかった。  幸いにも食事の届く頃合いで、今が朝なのか昼なのかそして夜なのか、おおかたの区切りがつく。朝は七時が食事時だと仮定し、腹の空き具合から察するにそろそろ昼食が運ばれてくる。  食事が届いたら、そのときにでも使用人に頼んでみよう──王様に逢いたいと。  ベッドに正座をすると、固唾を呑み扉に視線を合わす。程なくすると扉から開錠された音が届き、ゆっくりと重たい体躯が開かれる。使用人がワゴンを引き部屋に入ってきた。  テーブルのうえに滋味深い料理が並ぶ。淡々とセッティングを進める使用人の許に近づくと、ためらいながらもジュリオは声をかける。 「あの……いつも食事を運んでくれて、ありがとうございます。それと、その……ええと……僕お願いがあって」  未だ一枚の着衣すら与えられていないジュリオは、ベッドのシーツをはがしそれを身体に巻きつけているだけ。視線を床に落とし、両足を重ね指をもじもじと絡めながら、はしたない格好を晒していることを今更ながら恥じらい頬を染める。  けれども恥じらっている場合ではない。途中で切ってしまった話のつづきを伝えようと顔をあげ、けれど視界にテーブルの料理が映り言葉を呑み込んでしまう。  どうもおかしい、いつもより皿の数が多いのだ。これではまるでふたり分──そこまで考えた瞬間、空気の流れが変わり部屋にくだんの男が現れた。 「よう、元気そうだな」 「──あっ」  思いもよらない展開。心の準備ができていないジュリオは大いに狼狽え、軽く床から飛び跳ねる。その拍子に手で押えていたシーツの合せを離してしまい、羽衣のようにひらりと床へ舞い落ちた。  あらわとなった自身の全裸を隠そうと、ジュリオは慌てて床にしゃがみ込む。 「なにを恥かしがることがある。もっとよく俺に見せてみろ」  この男は今なにを言った。裸を見せろと言わなかったか。自分の耳を疑いそうになるが、しかし男の視線がジュリオに向かっていることで、聞き間違いではないと理解した。  あろうことか裸を見せろだなどと破廉恥極まりのない、いやそれ以上に男の裸を見たがるなどとジュリオには理解の範疇(はんちゅう)を越えている。どう返してよいやら分からず二の句が継げずにいると、焦れたように男は尚も欲望を強要してくる。 「何度も同じことを言わせるな。さっさと立ち上がれっ!」 「はいっ」  ひときわ大きな怒声に飛び上がったジュリオは、糸で引っぱられるように立ち上がった。 「それでいい」  羞恥のあまり薔薇色に染まるジュリオの柔肌を目にするなり満足気にうなずく不遜な男。つづいて彼は「もうよい。下がれ」と使用人を追い払うと、怯えるジュリオの許に近づき腰を取る。 「細いな。もっと食って肉をつけろ。肉づきのいいほうが俺の好みだ、おまえは理想の身体となって俺を満足させろ」 「……はい?」 「まあいい。今日はおまえに贈り物を持ってきた」  訳の分からないことを言われ混乱するジュリオをよそに、次々と話を進めていく傲慢な男。ふところに手を忍ばせると、取りだしたのはルビーの首飾りだった。これをジュリオに贈ろうというのか。  生まれてこのかた宝石など見たこともないが、それでも彼が手にする首飾りが高価なものであるくらいジュリオにも分かる。気持ちは嬉しいが貰うわけにはいかない。それよりも下着の一枚でも貰ったほうが有り難いと心に思う。  首に下げられ宝石の重みにめまいを覚えるものの、それには触れないよう丁重に断る。 「あの……王様、僕こんな高価なもの頂けません。お気持ちだけ受け取って──」 「気にするな。服の代わりだ、おまえは黙って受け取ればいい」  話の論点がずれていると思うのは僕だけなのか。  この男とは絶対に意思の疎通ができないと、心のなかでジュリオはため息をつくのだった。その間にも男の手は休まらない。今度はジュリオの髪をかきあげると、耳をあらわにして口唇を這わせる。 「んっ、あん……っ」  耳朶を這う男の舌が得も言われぬ感覚を生み、ぞくぞくと肌が粟立ってしまう。鼻に抜けるような甘い声がジュリオの口から漏れ、思わず両手で覆い隠す。けれど男がそれを阻む。 「隠すな、もっと聞かせろ。おまえは声も愛らしい」 「んん、や、あ……──ああっ!」  尚も舌を這わされ得体の知れない感覚に悶えていたが、つぎの瞬間ちくりとした痛みが耳垂に走り身体が跳ねる。つつと流れるひと筋の血潮を舌で舐めとると、男は満足げに「これでおまえは俺のものだ」とささやく。  耳に手を伸ばし触れてみると、そこには冷たいものが刺さっている。もしやこれはピアス── 「あの、これ……」 「ルビーのピアスだ。俺の血より生まれた石だ、それを耳につけたおまえは俺のものだという証になる。この宮殿にいる限り、不逞な輩がおまえを狙うだろうが、それがおまえを守ってくれる」  最後に「この部屋から出なければ問題ない」と意味深長な言葉を残し、男はジュリオをテーブルにエスコートして食事を始めた。  4  ジュリオの耳にルビーのピアスをつけてから、男は間を開けずに部屋を訪れるようになった。初めは二日置き、それが一日置きになると、すっかりジュリオと寝食を共にするようになる。  そしてもうひとつ。  彼の名は”バルバトス・カーンツェイル”といい、ジュリオの暮らす国とは違う地に住むらしい。彼の名を知らないジュリオは、けれどてっきり国王と疑わずにずっと王様と呼んでいた。  するとバルバトスは「王に違いはないが、おまえの言う人間界の王ではない。俺は魔界の王だ」と教えてくれる。初めのうちは本気に取ってはいなかったジュリオではあるが、幾度と宮殿を案内されるうちに考えが変わる。  バルバトスを初めて見たときも思ったが、宮殿ですれ違う者たちはみな人間とどこか違う。たとえばバルバトスは息を呑むほどに美しく、彼の耳は長く先が尖っていてジュリオのそれとは違うのだ。  他にも目立つ相違は数多く、彼らが人間ではないと認めざるを得ない事実を目撃する。ある者は頭部に角が生えていたり、また口から鋭利な牙が伸びていたり。背には大きな翼が生え、空高く舞う者もいた。  それらを目の当たりにしたときは腰が抜けそうなほど驚いたものだが、人間とは順応に長けた生き物だということをジュリオ自身が身をもって体感した。  枢機卿を襲った怪鳥の正体もバルバトスだった。本来の彼は漆黒の翼をもつ気高き魔族であり、人間界に現れるときはワタリガラスのすがたを取る。  ジュリオが宮殿で寝起きするようになって半月。バルバトスは殊の外優しく接してくれて、ともすれば今の生活に馴染みつつある。けれど毎夜のように夢に出てくるのは、ジュリオを案じて消沈する母親のすがただ。  このままではいけない。母親が心配しているから帰らせて欲しい、そうバルバトスに伝えなくては。けれど彼はジュリオが宮殿を出ていくのを許さない。そのために服を与えずにいるのだから。  ジュリオが身に着けているものといえば、耳もとで輝くルビーのピアスと腰に巻くのを許可されたパレオのみ。ルビーの首飾りはずっしりと重く、贈られた日以来外したままだ。  いつものように目を覚ますと、となりで寝息を立てる美丈夫をうっとりと堪能する。彼が目覚めたら思いを打ち明けよう、心で反芻しながら今しばらく麗しき寝姿を眺め見た。  ジュリオが住む世界とは地形や気候が大きく異なる、バルバトスが統治する魔界。空に太陽が昇ることはなく、また星が煌めくこともない。暁ほどに薄暗い環境では植物も育たず、人間が暮らすには苛酷すぎると言ってもいい。  未だ宮殿の外には出してもらえないジュリオ。外気に触れることなく室内にとじ込められていれば、いくら元気が取り柄のジュリオであっても気分が滅入ってしまう。  そこでバルバトスに願う、せめてバルコニーで昼食がしたいと。ジュリオの希望は叶い、以後バルコニーで食事ができるようになった。  母親の許に返して欲しいとバルバトスに言えないまま朝が過ぎ、昼食を楽しむためバルコニーに移動する。向かい合うようにテーブルへ着席すると、よしと覚悟を決めて願いを口にする。 「バルバトス様、お願いがあります」 「なんだ」 「僕がこの王宮にお邪魔してもう半月が経ちます。きっと母さんが心配していると思うので、僕そろそろ家に帰ろうと──」 「だめだっ!」  それまで艶然と柔らかだった表情は一転し、バルバトスは目をつり上げ怒りをあらわにする。地響きがするほどの怒声に飛び上がり、手にするカトラリを皿のうえに落としてしまう。 「ごごご、ごめんなさい……あの、僕……」  願いを一蹴されてしまったジュリオ。耳障りな音を立ててしまったことに謝りながら、恐怖と悲しみに我慢ができず涙をこぼす。だけども一度機嫌を損ねたバルバトスは、ジュリオの謝罪など受けつけようとはしない。  魔王の怒りと連動するように、みる見る宮殿の外は嵐に荒れてゆく。雷鳴が(とどろ)き岩山が溶岩を流すと、一面は紅蓮に包まれてしまった。  席から立ち上がったバルバトスから真空の圧力が発生し、テーブルがバルコニーの柵を越え吹き飛ぶ。いよいよ恐怖にとらわるジュリオの腕を掴むと、バルバトスは室内に引きずっていく。  それまで唯一外気に触れることのできたバルコニーはバルバトスの魔力により消滅し、ふたたび窓は消えると無機質な壁に戻ってしまう。意味をなさないカーテンを涙にかすむ目に映しながら、ジュリオは心に灯る生の(ほむら)を消してしまうのだった。  5  ふたたび部屋にとじ込めて以来ジュリオから笑顔は失われた。  ベッドのそばにはリボンのかけられた大小の箱が山と並んでいる。ジュリオを喜ばせようと、バルバトスが用意した贈り物だ。しかしながらリボンが解かれた様子はなく、ただ虚しく積み上げられているだけ。  食事もほとんど口にすることはなく、ときおり声を殺して涙するといった始末。ジュリオは生身の人間だ、このままでは衰弱してしまうだろう。けれど心を閉ざしてしまったジュリオにとって、与えるべき薬などありはしない。  はじめは怒りに我を忘れて無体な振る舞いをしたバルバトスも、時間とともに頭は冷え意気消沈するジュリオを案じる。 「今日は宮殿を散歩してみるか」 「……」  褥に横たわるジュリオにそう提案するもの、かすかな歔欷(きょき)が漏れるだけで返事はない。 「ジュリオ、声を聞かせてくれ。俺はおまえを苦しめたいわけではない、ただ笑顔を俺に向けて欲しいだけなのだ」  少し淋しそうなバルバトスの声音。まるで乞うような科白にジュリオがおもてを上げる。 「ごめんなさい。でも僕……笑えない。うっ、うえっ……」   うさぎのように目を赤く腫らして、それでも止まることのない涙の粒。真珠のように美しいそれを舌ですくうと、褥で震えるジュリオをバルバトスは腕に包み込む。 「泣くな。どうすればおまえは笑顔を見せる。これまで俺は人間と触れ合ったことがないのだ、どう接していいのか皆目見当もつかん。欲しいものがあれば何でも与えてやるぞ。食いたいものはあるか、俺が最果てまで赴き取ってきてやろう」 「欲しいものなどありません。ただ僕は家に帰りたいだけ」 「だめだっ!……ジュリオ、俺のそばにいてくれ。十年も待ったのだ、もう一秒たりと待てない。約束どおり、おまえは俺の伴侶となるのだ」  川が氾濫(はんらん)するように止まらなかった涙が、記憶にないバルバトスの約束を聞いた途端ぴたりと止まる。目を瞠り穴が開くほどにバルバトスの顔を見る。その瞳は戸惑いに揺れていて、ジュリオは約束を忘れてしまったのだとバルバトスは気づく。 「十年まえの約束を覚えてはないのか」 「十年、まえ……」 「そうだ。まだおまえは幼かったから、忘れてしまっても不思議はないか」  そう話すバルバトスは、けれど淋しそうに笑う。  十年まえを遡るようにバルバトスはまぶたを伏せ語り始める。  魔界に住まう者は別段食事をしなくても生きていける。人間の血液を糧とする者もいるが、多くは怖れや絶望など人々が抱く負の感情を養分とするのだ。  魔族の頂点に立つバルバトスも同じく負の感情を糧とするが、けれど彼はときおり人間界に降り立ち人が食するものを口にする。もとより人間という存在を好ましく思うバルバトスは、愛しき者を恐怖に震撼(しんかん)させてまで糧を得ようとはしない。  いつものように人間界にやってきたバルバトスを、貴族共が雇った傭兵部隊が襲う。これまで魔族が糧としてきたのは傲慢な貴族のみ、金と権力をつかい貴族も防衛に出たというわけだ。  油断したバルバトスは翼に怪我を負い、逃げ果せたもの動けなくなってしまう。空から落ちたのは貴族街から離れた場所にある森のなか、近くに湖があり(ほとり)で羽を休めていた。  閉じることのできない片翼を広げ木に凭れていると、そこへ愛らしいひとりの少年がすがたを現す。  少年はバルバトスのそばまで来ると目を輝かせる。大きな鳥に興味津々な少年は、ここで何をしているのか、名前を教えてと問う。けれど魔族は人間に名を知られるわけにはいかない。名を知られると、その者の従属にならなくてはいけないからだ。  けれど少年は屈託のない笑顔でジュリオだと名乗ると、つぎに血のにじむ翼に気づくなり手当を始める。そうは言っても六歳の少年だ、医者のような処置ではなく自分の上衣を脱ぐとそれを湖に沈め、傷口を拭ってやるといったもの。  それから手にするバスケットから木の実をつまみ、バルバトスの口許に運んでやった。はじめのうちは戸惑うバルバトスも、徐々にジュリオにほだされ好きにさせてやる。  ひと言も語らないバルバトスのそばに腰を下ろすと、ジュリオは他愛のない話を始める。  熱が出ると、母親は必ずジュリオのそばにいて、淋しくないよう話を聞かせてくれるのだ。するとジュリオは安心して眠ることができた。眠るとつぎの日には熱も下がり元気になる。  同じようにしてやれば、バルバトスも怪我が治ると考えたのだろう。ジュリオは思いつくかぎりの話をしてやった。  湖が黄昏に染まる頃、ジュリオは立ち上がると家に帰るという。鳥さんはやく元気になってねと残し踵を返すジュリオを、けれどバルバトスは腕を取り引き止める。そして重い口を開くと自分の名を告げた。  はじめは驚いたものすぐに笑顔になると、ジュリオはバルバトスの名を呼び──契約がなされた。  ジュリオの身に危険が迫るようなことがあれば、必ず助けに向かい守ってやるとバルバトスは誓う。それを聞いたジュリオの笑顔は更にほころび、まるで母さんを守る父さんみたいと称する。  それはどういう意味だと問えば、ジュリオは両親のことを話し始めた。  ジュリオの暮らす町は貧しく、それでも家族より添い幸せだった。けれどあるとき人身売買の男がやってきて、町でも美人だと噂のジュリオの母親に目をつけると、あわや連れ去ろうとする。  けれどすんでのところで父親が助けに飛び込み、難を逃れることができた。そのときに負った怪我がもとで父親は命を落とす。以来ジュリオは母親とふたりで生き、父親の代わりに母親を守っているのだそうだ。  人間好きのバルバトスはジュリオを憐れに思い、自分の国で暮らせば幸せにしてやると誘う。まるで求婚のような言葉にジュリオは笑うと、いつか大人になり結婚ができるようになればと断る。  家路に急ぐジュリオの背を見送りながら、交わした約束は必ず果たすと心に誓う─── 「人間界で大人とは十六歳だろう。だから俺はおまえが大人となる日を待っていたのだ。まさか迎えに向かった日に、おまえを危険から助けようとは思わなかったがな」  母親譲りの美貌を持つジュリオ。バルバトスが現れなければ、きっと今頃は枢機卿の慰み者となっていただろう。すべてを理解したジュリオは、遠い日の記憶を取りだすように訥々と思いだしたことを話しだす。 「まだ僕が幼い頃に父さんが亡くなって、母さんは僕を育てるためにお針子の仕事に出るようになったんです。帰って来るのも遅くて、だから僕にできることは自分でしようと食事の支度をするようになりました。 そうは言っても難しいことはできないので、森で木の実を集めたり湖で魚を捕まえたり簡単なことですが。確か収穫祭を迎えるまえでしょうか、グースベリーを摘もうと森に出かけると黒くて大きな鳥さんに出会いました」 「あの鳥さんはバルバトス様だったのですね」とジュリオが問うと、バルバトスは小さくうなずき「ああ、そうだ」と答える。ふたり出逢いの日を思い出してくれたことが嬉しいのか、バルバトスは相好を崩してジュリオを抱きよせた。  小さな手を運び木の実を食べさせてくれた人の子の優しさに触れ、それ以来バルバトスは度々人間界にきてはジュリオの様子を見守った。あるときは軒先に山と食糧を置いていき、母子の手助けをしてやったりもした。  朝になると籐籠いっぱいの肉や果物それに白パンなどが置かれていて不思議に思うも、親子を案じる近隣の心づくしの配慮かと感謝をして受け取っていたジュリオ。  過去のひとつひとつが明らかになるたび、バルバトスの優しさが心に沁み得も言われぬ感情がジュリオの胸に生まれる。甘く痺れるような心の温もりは、けれどもそれが何なのかジュリオには分かっていた。 「バルバトス様……」 「なんだ」 「僕はバルバトス様のことが好きです。はじめは怖かったけど今は怖くない。ずっとバルバトス様のおそばにいたい。ですが母さんをひとりにはしておけない」  潤む瞳からいくつもの涙がこぼれ落ち、「伴侶にはなれません」と震える声で断わった。  ジュリオから想いと別れを告げられたバルバトスの表情は苦しさに歪み、愛しき者を抱きしめる腕は少しずつ力が緩んでいく。このまま永遠にとじ込めておきたい、けれどそうするとジュリオから笑顔は失われるだろう。  ジュリオを手放したバルバトスはひと言「分かった」と口にすると、その途端ジュリオはまぶたが重くなり意識が保てなくなっていく。消えゆく意識のなか最後に訊いた彼の言葉は「悪かった」──淋しそうな表情がジュリオの胸に焼きついた。  6  つぎに目が覚めるとジュリオは自分のベッドにいた。  見慣れた天井と部屋の匂いが安堵を(もたら)すとともに、心の大切な部分が欠けてしまったような欠如感と乾きに堪えられず、身体を丸め自身を抱きしめながら痛みから逃れようとする。  いつの間に彼のことをこんなにも好きになっていたのか。部屋にとじ込められ怖い思いだってさせられた。それなのに思い出すのは彼と過ごした楽しいひとときだけ。  思い返せばいつも彼はそばにいてくれた。それはジュリオが淋しくないようにとの、バルバトスなりの優しさだったのだろう。  ジュリオは初めて恋というものを知った。叶うことのない恋だったが、それでもジュリオにとってはかけがえのないもの。ありがとう、大好き。まぶたに焼きついて離れない彼にそう伝えると、涙ですべてを流してしまおうと目を閉じた。  ジュリオが魔界に連れ去られてひと月が経つ。けれども実際に過ぎていた時間は一日と短く、どうやら魔界と人間界では時の流れが違うようだ。母親もジュリオがひと月も行方知れずだったなど到底思うはずもない。  いつものように母親がジュリオを起こしにくると、ふたり慎ましやかな朝食を済ませ仕事に向かう。ジュリオも今日から町の外れにある製粉所で働くことになっている。小麦の善し悪しを精選し、夾雑物(きょうざつぶつ)を取り除く作業をするのだ。  初日から遅刻をしては元も子もない、身なりを整えると母親が(こしら)えてくれた弁当をポシェットに詰め、早めに家を出ることにした。製粉所まで徒歩で三十分ほど、この分なら余裕で到着するだろう。  道なりにはくだんの森がある。それを横目にジュリオはため息をつく。いつの日か胸の痛みや渇きも癒えるのだろうか。「がんばれジュリオ」と沈む気持ちを鼓舞して先を急ぐのだった。  ジュリオが製粉所で働くようになって半年。稼いだ賃金のほとんどを母親に渡し、その分お針子の仕事を遅くまでしないでよくなった母親は、家で過ごす時間が増えた。  それだけジュリオと過ごせる時間も増えると、息子のちょっとした変化に気づく。働きに出るようになって成長したとも考えられるが、ふとしたときの表情が切なげだったりため息の数が多かったりと、やはりどこか以前とは様子が違う。  その日もジュリオが帰ってくるまでに帰宅した母親は、夕食の支度をして息子の帰りを待つ。 「母さん、ただいま」 「おかえりなさい」  部屋にただようコンソメの香り、ジュリオの腹がぐうと鳴く。今日はシチューだと明るく振る舞うジュリオに、「はやく手を洗ってきなさい」と母親は促す。部屋に戻り上着を脱ぐと、手を洗いうがいをしてテーブルに着く。 「いい匂い。いただきます」 「はい、召し上がれ」  にこにこと笑顔を絶やさないジュリオ。けれどそれが無理をして努めているなど母親は百も承知、食事が終わるころを見計らいジュリオに悩みでもあるのかと問う。  初めこそはぐらかしていたもの、執拗に問われたジュリオはもう隠し通すことができなくなってしまった。ともより嘘などつけるような性格ではない、城に向かった日に起きたことをすべて話した。 「──そうだったの。母さん何も知らずにごめんね」 「母さんが謝ることじゃないよ。これは僕の問題なんだ、はやく忘れて現実を見なきゃ。大丈夫、きっとすぐ元気になるよ」 「ジュリオはそれでいいの? ほんとうに忘れてしまってもいいの」  母親の問いに返す言葉がない。忘れられるはずなどないからだ。けれど、だからといって、どうすればいいというのだ。彼は魔王、かたやジュリオは人間。住む場所も生きる時さえ違うのだ、どうすることもできない。  枯れてしまったはずの涙がまた流れる。声も出さずに泣く息子の頭をそっと撫でると、母親が父親の話をして聞かす。 「ジュリオの父さんはね、寡黙なひとだったけどとても優しいひとだった。母さん、父さんと一緒になるのを反対されて、家を飛び出してきたのよ」 「えっ」  初めて聞く両親の過去にジュリオは驚く。  母親の一族は商家としてそれなりの家柄で、すでに嫁ぎ先も決まっていたそうだ。かたや父親に両親はなく、根無し草のようにその日を生きていた。旅でたどり着いた土地でふたり出逢い当然のように恋に落ちる。  けれども母親の両親が許すはずもなく、ふたり駆け落ちをしてこの町にやってきた。そしてジュリオが生まれ今があることに、母親は毎日のように感謝をせずにいられない。 「ジュリオの人生はあなたのものよ。一度きりですもの、後悔のないように生きて」 「母さん……」  母親がジュリオに何を伝えたいのか、言葉にしなくてもそれが分かった。もう一度バルバトスに逢いたい、そして彼と一緒に生きていきたい。ジュリオの心に愛が溢れ、それは黒翼にのせ彼の許へ羽ばたいてゆく。  席から立ち「ありがとう母さん、いってきます」と伝えたジュリオは、扉をあけ放ち外に飛び出した。  7  いつも見守っていたと話すバルバトスのことだ、きっと今もどこかでジュリオを見守っているかもしれない。夜の道を走る自分に気づいて欲しいと願いながら、ジュリオは思い出の場所に向かっている。  毎日のように通る道の途中にある森、静かな湖の畔を目指してジュリオは急ぐ。 「バルバトス様、僕ジュリオです。どうかすがたを見せて」  過去にバルバトスが横たわっていた木のまえで、ジュリオは何度も彼の名を呼び願いを乞う。すると程なくして風が舞い木々がざわめくと、目のまえを黒い翼を広げるバルバトスが下りたつ。 「なぜ来た。どうして俺の名を呼ぶ」  つづけて「帰れ」と言おうとして、けれどそれを呑み込む。言葉よりも先にジュリオは身体が動き、胸に飛び込んてきたからだ。ぎゅうとしがみつかれては、もう断わりの文句など口にできなかった。 「僕やっぱりあなたのことが忘れられない。好きですバルバトス様、僕をあなたの伴侶にして下さい」 「もう二度と手放してやれんぞ」 「はい」  ジュリオに迷いはなかった。たとえ元いた世界で暮らせなくとも、バルバトスとともに生き、幸せになりたいと思った。 「ではしばし目をつむれ。人間界と魔界をつなぐ門をくぐるとき、人間が目をひらいたままだと網膜が焼けてしまうのだ。俺がいいと言うまで絶対に目を開けるな」  現世から彼世に旅立つ死者の目に銀貨を乗せる行為。いわゆる葬送銀貨は死者の目を封印するためにある。その風習は(ゲート)をくぐる際、煉獄の炎から網膜を守る行為だったのだとジュリオは理解した。 「ひっ──絶対に開けません」 「よし」  バルバトスの説明に飛び上がるジュリオ。しかとまぶたを閉じると大きな胸にしがみつき、振り落とされないよう体勢をととのえる。ふわりと浮遊感を覚えると強靭な翼の羽ばたく音が聴こえ、つぎに声がかかるとそこは暁の世界だった。  最終章 「ふっ、あ、ああ……っ」  慣れ親しんだベッドに寝かされたジュリオは、身ぐるみをすべて剥がされると薔薇色に染まる裸体をバルバトスに凌辱され、これまで味わったことない快楽に身悶える。 「おまえの身体はどこも甘い」 「いっ、あっ……お願……先に湯浴み、を」 「そんなもの必要ない」  宮殿に着くなり翠帳(すいちょう)に投げ出されたジュリオ。朝から製粉所で働いた身体だ、粉と汗にまみれた自身に舌を這わされるなど耐えられない。いやいやと首をふり拒むもの、彼の舌が齎す痺れには抗えない。  バルバトスは決してジュリオを傷つけない。思考が蕩けるまで甘やかしてやる。けれど伴侶として受け入れたからには身も心も我が物とし、いくら拒もうと満足いくまで味わい尽くすのだ。  嫌だと拒絶するのはこの口かとばかりに口づけをして、舌を深く差し込み口内を蹂躙する。薄く小さなジュリオの舌を捕まえると、自分のそれに絡めて吸い上げてやる。そして口蓋を舌先でなぞってやると、ジュリオはあえかに喘ぎ啼いた。 「うう、んっ……ああっ」 「そうだ、もっといい声で啼け」  口づけを解くと今度は頤に舌を這わせ徐々に降下していく。首筋から鎖骨を通り胸元までたどり着くと、慎ましやかに主張する小さな尖りで止まった。ぷくりと膨らむそれは、健気にも快楽を受けて悦んでいる。 「ああ、んっ……ふぅ……や、あっ」  尖りのまわりで色づく桜貝のようなそれを舌先でなぞり、今にも弾けそうな主軸を甘噛みしてやれば、ジュリオは背をのけ反らせて身悶えた。 「おまえはここを噛まれるのが好きなのか」 「ちがっ──」 「なにが違う。これはそうだと言っているではないか」 「あ、ああっ」  まるで獣のように舌舐めずりをしながら、バルバトスは淫靡な笑みを浮かべて指摘する。彼が手にするもの、愛らしくへそを打つジュリオの昂りだ。それは快感を切に訴え鈴口よりしずくを流している。  柔く揉みしだいてやりながらも、決定的な官能を与えることない。そんな生殺しのような仕打ちを受け、とうとうジュリオは我慢ができず大粒の涙をこぼす。それを見たバルバトスは満足げに問う。 「どうして欲しい」 「お願……い、触っ、もっと強く触っ、て」 「いいだろう」  ジュリオの望みを叶えてやろうと、バルバトスは下肢で震える昂りに口を近づけると、ためらうことなくそれを含む。 「あああ──っ!」  昂りが温もりに包まれたと同時に体内を稲妻が走る。甘やかな福音のような嬌声を上げながら、ジュリオは彼の口内に快楽の息吹を放った。口に受けたバルバトスは手に戻すと、それをジュリオの臀部(でんぶ)に注いでゆく。  双丘の奥で慎ましく窄まるジュリオの後孔。初めはゆっくりと次第に指の力を加え、固く閉じたそれを解していった。すると頑なだった薔薇のつぼみが花ひらくように、ジュリオの窄まりは弾力を帯びて口をひらく。 「頃合いか。ジュリオ、力を抜け」  バルバトスの促しにジュリオの身体が小さく跳ねる。いくら初心なジュリオであろうと、それが何を意味するのか理解できた。後孔にあてがわれた火傷しそうに熱い怒張を感じ、急激にジュリオの心拍数が上昇する。 「バルバトス様、僕……怖い」 「恐れることはない。これでおまえの心と身体すべて俺のものだ。愛しき伴侶、永久の愛をおまえに──」 「あっ、ああっ、バルバトス、様───」  ふたりの体躯は隙間なく重なり合うと、終わりのない夜の帳に溶けていった────── 「具合はどうだ」 「……バルバトス様。はい、平気です」 「そうか」  初めてのまぐあいに意識を手放してしまったジュリオ。バルバトスの胸にすっぽりと包まれた状態で目を覚ます。 「その、途中で意識がなくなって……ごめんなさい」 「くっくっ、おまえはよく謝るやつだな。なにも悪くはない、それにそのうち慣れるだろうしな」 「えっ、それはどういう意味──」 「これから毎日のように抱いてやれば、嫌でも耐性ができるだろう。だが今はジュリオの初心な様子を味わわせてくれ」  最後にバルバトスが話した内容に、ジュリオは目を見開き狼狽(うろた)える。あんなことが毎日つづけば、きっと身体が壊れてしまう。そんなジュリオの不安はいつの日か解消され、バルバトスの愛を全身で受け止めるのだった。  魔界にいる限りジュリオは歳を取らない。過ぎることのない時間を永久にバルバトスを生きるのだ。時には彼に抱きかかえられ人間界に降り立つと、ジュリオは母親の許を訪ねる。  抱えきれないほどの土産を持って──────  了

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