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【供物】曖いつあき

新月の晩は天空が闇を深めるので、星が降ってくるようだ。セム爺さんはそう教えてくれたが、実際には、遠景を浮かび上がらせる家々の灯りやら、そこから森まで幾重にも連なる松明(たいまつ)やら、そういう地上の営みの方がアシュラインの目には()みた。無明(むみょう)の闇を知る少年からすれば、初めて見る世界は、村人たちの営為(えいい)が夜陰を(しの)ぎ、交錯し、その濃度に息苦しささえ覚えるものだった。  その胸苦しさは、きつく幾重にも身体(からだ)に巻き付けられた衣装のせいでもあるし、初めて嗅ぐ森や松明の間を(くぐ)り抜ける風の匂いのせいでもあったのだが、アシュラインにとっては幽閉されていた部屋の(よど)みよりも、怒涛(どとう)のように押し寄せる世界の方が濃密で(おぼ)れてしまいそうだった。  少年の脚は歩くことを知っていたが、足裏が(とら)える土の固さや、息せき切って走る風の重みを知らなかった。屋敷の開け放たれた扉から、牛が()輿(こし)への(わず)かな距離が、少年にとって新世界への入り口だった。  そして、その入り口を抜けると、すぐに少年には出口が待っている。そのことも、アシュラインは世話係のセムやラシンから教えられていたし、秘密裏に運んでもらって読んだ書物からも知れた。だから、彼は最初で最後の世界をしっかりと焼き付けておこうと、瑠璃色(るりいろ)(ひとみ)を澄ましていたのだ。  少年はか細く骨張った足を小さく(たた)んで輿(こし)の真ん中に座った。輿と言っても、人が一人座れる程度の正方形の床板に、幾何学模様(きかがくもよう)綾織(あやお)られたカーペットを張り、四本の細い柱が頼りなく天蓋(てんがい)を支えているといった、簡素なつくりのものだった。牛が()くそれは、大きな車輪が小石を(また)ぐたびに揺れるので、アシュラインは柔らかい(てのひら)に棘が刺さらぬよう、慎重に支柱を握った。  牛の手綱(たづな)を持つのは赤髪のセムで、輿(こし)の後ろに続くのは深碧(しんぺき)の眸を持つラシンだった。 博識のセムはアシュラインが小さな頃から文字を教え、外の世界を物語ってくれた。屋敷の地下から出ることを禁じられていた少年は、セムが目尻に(しわ)を寄せて話す「空」というものを見てみたかった。周密(しゅうみつ)に組まれた石材が囲う地下牢で、「青空」とか「雨雲」とか「月影」とか、書物でそういった字面(じづら)を追っては思いを()せた。  体の小さなラシンは、誰にも知られずに、アシュラインへお菓子や本を運ぶのが上手かった。バッグやペンケースを巧みに細工しては、地下牢へその得意顔を見せにやって来た。村祭りの際にはドレス姿の女の子に仮装し、スカートの中に沢山のお土産を隠し持って来 て、アシュラインを驚かせた。  ある時、いつも学校から帰ると屋敷へ飛んできていたラシンが、しばらく立ち寄らなかったことがあった。顔を見せない日が、一日、二日、と増えていくうちに、アシュラインは不安を重ねて、セムに尋ねた。 「ラシンは学校で怪我をして、家で休んでいる」  そう短い言葉で教えてもらってからも、彼が再びアシュラインの元へと訪れるようになるまで、憂いは晴れなかった。 「ケガは? もう治ったの?」  ラシンが一週間ぶりに、部屋へ食事を運んでくれた時、アシュラインは固いベッドに毛布を折り畳んで、その上に友人を座らせた。大したことはないと笑みを作る彼に、牢で一人待った少年は、怪我の原因や経過を(たた)()けるように尋ねた。 「……僕の目が緑だから」  なかなか語りたがらなかった友人が、やっと学校の子どもたちから暴力を受けたことを、ぽつりぽつりと言葉にした。 「どうして? ラシンの目は、奥まで吸い込まれそうに澄んでいて、ランプの灯りがあたると、宝石みたいに光をいっぱい溜め込んで、こんなにこんなに綺麗なのに?」  アシュラインは宝石を見たことがなかったが、それはきっとラシンの眸のようなものなのだろうと、いつも想像していた。  だが、隣に座っている友人はそのまま黙ってしまった。ただ、(しずく)が幾筋も、音も立てずにそばかすの頬を(つた)っては、(あご)から(したた)り、ランプの琥珀色(こはくいろ)を受けては、光の粒となり、ラシンの(ひざ)を濡らし続けた。  その涙の理由を知るまでに、アシュラインはそう時間がかからなかった。物心がついた頃には、石壁と暗闇が少年の世界の全てであったし、ランプの(ともしび)(ろう)に通う数少ない人が少年の毎日を(つな)いでくれていたので、その理由を問うという着想には至らなかった。いや、どこかで聞いてはいけないものだと察していたのかもしれない。  しかし、ラシンの涙の日を境に、幼い頃から無意識に拾い続けていた欠片を繋ぎ、組み合わせ、アシュラインは自分が幽閉されている理由に辿り着いた。 「どうか、教えてくれないか? 僕の目はどんな色をしているの?」  ある日、とうとう胸の内に収めておくことができなくなって、セム爺さんにアシュラインはそう投げかけてしまっていた。 「……アシュライン、お前の目は、空の色だ。雲一つない青空と同じ色をしている」  答えた老人は、何処かに痛みを抱えているような笑みを、真っ直ぐに少年へ向けた。  それから、セムは紺碧(こんぺき)の双眸を持つ少年をベッドに腰掛けさせると、自身は木製の椅子をその前に置いて腰掛けた。それは、この牢に一つだけある武骨(ぶこつ)で古びた椅子だった。  セムは言葉を飾ることも曖昧(あいまい)にすることもなく、簡素に伝えてくれた。 村人のほとんどが栗色の目と髪をしていること、赤ん坊の頃に教会で両目と髪の毛の色素検査が行われ、聖色と認められなかった者は村外れのゲッテ沼の近くで暮らさなければならないこと、悪魔の色と認定されてしまった者はその沼の奥にある屋敷の地下に閉じ込められて生きること、そして、この地域が干ばつに見舞われた年には、悪魔の色を持つ者を神への生贄(いけにえ)として差し出すこと。 語られた話にほとんど衝撃を受けていない自分がいることに、アシュラインは気が付いた。自分の中のどこか奥底では知っていたのだ。知っていて、その深淵(しんえん)には目を向けなかった。だが、一度そこに辿り着いてしまったら、もう目を伏せておくことはできなくて、セムに村の(おきて)について記述されている書物をせがんでいた。  だから、すでに牛車の輿(こし)に乗る前に、アシュラインはいつかこの日が来るかもしれない、そういう覚悟や諦念を、くすんだ心のビン底に(おり)を積むように、重ねていたのだ。  神に捧げられると決められた時、地下牢に駆け込んできたラシンは息も()()えで、アシュラインの名を何度も呼んで嗚咽(おえつ)した。しがみ付いて離れない友人を(なだ)めたのは、供物(くもつ)になる少年の方だった。  ただ、願わくば、生贄(いけにえ)となる日に、空を見てみたいと思った。最期の時、短い時間でもいいから、この世界を、どんな空の下に自分が生まれ落ちたかを、知ることができたらと、願わずにはいられなかった。  真雪のような薄布を、重みで身が(だる)くなるほど、重ねて(しば)り、また重ねて縛り、アシュラインの華奢(きゃしゃ)身体(からだ)は、その重量を増して、牛車の輿を(きし)ませた。ラシンは顔つきが変わるほどに両目を()らしていたが、もう涙は流れていなかった。  道標(みちしるべ)のように時折現れる松明(たいまつ)の間を抜けながら、沼の脇を通り、数件の家々の前を進んでいくと、徐々に道幅が広くなっていくようだった。闇に慣れたアシュラインの視界は、夜陰(やいん)(さえぎ)られることはなかった。  生贄が新月の晩に村の大通りを通って山奥まで運ばれることを、セムはただ静かに知らせてくれたが、生贄となる少年の方はずいぶんと昔から心得ていることだった。だが、セムが伝えたかったことは別にあった。 「お前を生んだ母さんがな、広場を抜けた三本目の路地陰(ろじかげ)にいるはずだ。教会に自分の息子を取り上げられたくなくて、赤ん坊を連れて逃げたんだ。だが、捕まってしまって。結局それから十六年、ずっと病院にいる。アシュラインが捧げられる晩だけ、何とか病室を抜け出すようにするから、最後に姿だけ見せてやってくれ」  最近、急に老け込んだようになったセムが、何かしらの手引きをしてくれていることが知れて、アシュラインは「ありがとう」と(しわ)の寄った手を握った。  牛車は耳に付くような(きし)みを上げて、広場に近付く。  輿の行く先は森の奥まで松明が道案内をしていた。 家々は何処も煌々(こうこう)と明かりが(とも)されていたが、カーテンが閉められて、誰も姿を見せることはなかった。儀式を遂行する者以外は、生贄(いけにえ)の姿を目にしてはならず、供物(くもつ)が捧げられる晩は、ただ固唾(かたず)()んで祈りながら、それが通り過ぎるのを待つ。そういう習わしになっていた。  セムに導かれる牛が広場を抜けると、少しずつ速度を落とす。一本目の道は牛車も通れるほどの幅があるものだった。二本目の路地はその先で二本に分かれているようだった。そして三本目は見落としてしまいそうに、狭く(かげ)っていた。  だが、アシュラインはそこにはっきりと人影を見つけた。  殊更(ことさら)、牛の歩は遅くなる。  頭から布のようなものを被った女性と、その横に男性が(たたず)んでいた。ラシンほどの子どもではないが、大人でもないような気がした。  初めて見る母は、何とも不思議な感覚で、あの人がいたから自分が生まれたのだと、他人事(ひとごと)のように思った。  輿(こし)が路地の前を通り過ぎてしまおうとした瞬間、両手を握り締めていた女性は(くずお)れ、そのまま地面に額を付けて震えていた。その横にいた黒い服を(まと)う男が、女性の肩を支えて、自分も(ひざまず)き、アシュラインの方へ(こうべ)を垂れているようだった。  広場が遠退(とおの)いてしまうと、また徐々に道が狭まってくる。  もう両側には家屋が見えなくなってきた頃、夜半の闇が急に深まったように感じた。アシュラインは不意に思い至って、天蓋(てんがい)から(わず)かに首を出してみる。そこには空漠とした夜闇が点々と小さなランプを数多(あまた)に垂らしていた。  セムが言った通りだった。星が降っているのだと、少年は思った。  森に入ってしまうと、木々に天空は遮られたが、いつの間にか胸苦しさが消えてきていることに気が付いて、枝や葉の間を擦り抜ける風の匂いを吸い込んだ。アシュラインは真新しい世界を悪くない場所だと思った。  輿に揺らされて、再び天が(ひら)けると、牛の脚が止まった。四本の松明に囲まれた小さな(やしろ)が目の前にあった。アシュラインは自分の脚でそこへ向かう。足裏の体温を奪われながら階段を上り切ると、幾何学模様(きかがくもよう)の布が張られた椅子が見え、ついと近寄る。重厚なつくりのそれに腰掛けてみると、セムだけが生贄の後について来たようで、老人は供物の前に(ひざまず)いた。  椅子には手枷(てかせ)足枷(あしかせ)が付いていて、そこへ足首を()め込むと、すでに冷たくなった足の体温を金属が更に吸い取ろうとした。 セムの手が枷へと運ばれる。だが、老人の手は震え切っていて、本人の意のままにならないようだった。 アシュラインは身を屈めると、自分で足枷を閉じ、鍵をかけた。手枷の方は片方しか閉じることができなかったが、セムの手は一層痙攣(けいれん)を起こしたように打ち震えていたので、彼に鍵を手渡し、立ち去るように伝える。 「セム、ありがとう。鍵を持って行ってくれれば、僕は動けないから、もういいよ」  老人は唇まで小刻みに(わなな)かせ、牛歩よりも重く、足が(もつ)れそうになりながら、立ち去った。  ここに来るまで一度も声を出さなかったラシンの(とどろ)くような泣き声が、階下から耳に届き、長い間それは続いたように思えた。だが、その言葉にもならない(うめ)き声は少しずつ少しずつ遠退(とおの)いていった。  少年は社が、自分の席が、最期の場所が、天に近いことを幸福に感じた。 (まぶた)の裏の星空が目に沁みるほどの眩さで、少年は眉間に疼痛(とうつう)が走るのを感じた。痛みから逃れたくて身じろいだが、身体(からだ)の自由は利かない。混沌(こんとん)とした意識の中で、彼は瞼を上げようとして、その瞬間閉じた。金色の矢が突き刺さったかのような衝撃を受けたのだ。  何が起きているのか、もう一度確認しようと、恐る恐る瞼を薄く持ち上げる。やはり少年の目には強すぎる光のようで、しばらく苦闘していたが、次第に双眸は身の範囲を確かめようと動き出した。  飴色(あめいろ)の光の脚が無数に少年の身体に刺さっているようで、もしかしたらこれが本で読んだ夜明けというものなのではないかと思い至る。だとすれば、世界は何て刺激的なのだろうと、ひりつくような痛みの中、(かす)れた声で喘ぎ、下向(したむ)いた。  (おもむろ)に視界が(かげ)る。半分しか開けられなかった(まぶた)が容易に(ひら)く。アシュラインが視線を上げていくと、そこには黒々とした人影が立ちはだかっていた。背後に光を負った人物の顔が(うかが)い知れず、しかし、これほどに長身の人間に出会ったことがないということだけは確かだった。もっともアシュラインはそれほど多くの人間を見たことがなかったのだが。 「ちと、ひ弱そうだが、……まあ、これでいいか」  低く声が響いたかと思うと、その影はアシュラインの(かせ)を指で撫でていく。からりと音を立て、三つの金属は外れていった。 「……鍵が、開いた」  吐息(といき)(つぶや)くと 「そりゃ、鍵屋だから」  と、上からシニカルな笑い声が降ってきた。 「チンタラするな。行くぞ」  影に手首を(つか)まれたかと思った次の瞬間、少年の身体を支えていた椅子も床も消え、落とし穴に(はま)ったかのように、漆黒の夜へと落ちていった。 睫毛(まつげ)の合間から、鉛色の石壁と橙黄色(とうこうしょく)のランプが(かす)んで見えて、少年は(ひど)く長い夢を見ていたような気がした。生贄として差し出されるべく、外界に出て、天と対話し、星と戯れた。そういう長くて密度のある夢に(きょう)じたのだろうと、睫毛の向こう側が、いつもと何ら変わらぬ地下牢であることに、落胆と安堵を覚えた。  すると、人影が視界に差す。ラシンはまだ学校だろうから、セムだろうか。そんなに自分は寝過ごしてしまったのかと、逡巡(しゅんじゅん)していると、ベッドの下の石畳に肩と腰を打ち付けた。 「いつまで寝てんだ。とっとと起きて働け」  痛みの余韻(よいん)苦悶(くもん)しながら見上げると、髪の長い男が立っていた。いや、男だろうか。低い声音も妙に整った顔立ちも、男性ものだと咄嗟(とっさ)に思ったが、どこか違和感を拭えなかった。  ()り上がった(まなじり)も筋が通った鼻梁(びりょう)も口角の上がった唇も、艶美(えんび)で、それでいて精悍(せいかん)であったが、人間にしては尖り過ぎた耳殻、石一つが埋め込まれている額に、真紅の双眸、何者なのか全く見当がつかなかった。ただ、自分が知っている人間のサンプルがごく少数だったので、アシュラインは相手が人間ではないと決めてしまう自信はなかった。 「働く、というのは?」  自分をベッドから落とした男へ、問うてみた。 「仕事を教える。言われたらすぐに覚えろ」  そこまで言われてようやく、アシュラインは自分の地下牢と似ているが全く異なる部屋にいることを自覚した。 「その恰好(かっこう)では仕事にならん。そっちの服に着替えろ」  その大人の男性らしき麗人がしゃくった(あご)の先を見遣(みや)ると、何着か服が掛けられていた。何度か地下牢に来たことがある役人と呼ばれる人々が身に付けていた物に似ているような気がした。  命じられるままに服を手に取ろうと、近付くと、不意に気配があって、その影を感じた方へ振り向いた。そこには幅が狭く、背丈もそれほどない扉があり、もう一人少年らしき人が佇んで、扉の向こうから視線を送ってきていた。  (にわ)かに立ち現れた人影に、アシュラインはと胸を突かれて後退(あとじさ)った。 「何をぐずぐずしている」  ()れた男が憤然(ふんぜん)として少年の目の前に立つと、長く(りん)とした流線を持つ指で、戸惑い(あら)わな顔を上向(うわむ)かせた。  冷ややかな指で顎を掴まれ、アシュラインは「もう一人、別の人がいると思わなくて……」と語尾を(こも)らせる。 「……それはお前の姿だ。鏡を知らんのか?」  知っている。見たことも触ったこともないだけで、鏡というものがあることは知っている。  アシュラインは声を呑んで、鏡の前へと引き寄せられた。  そこには、陶器のような肌をした乳白色の少年がいた。地下牢の石畳が()て付くような日に、ラシンが持ってきてくれたホットショコラのポットの艶を思わせた。その淡く清艶とした頬には、白銀の頭髪が(ゆる)く波打って寄り添い、それは真綿のような衣装の肩にまで達していた。  大きく二重の双眸には、見たことがない澄んだ色があった。いや、似通った色合いは知っているような気がした。セムが肌身離さず持っているお守りの玉や、ラシンが学校帰りに摘んできてくれた花や、今まで見たことのある色の中に似ているものはあった。だが、同時に、そのどれとも異なっているように思え、アシュラインは訳もなく胸のざわつきを覚えた。透徹(とうてつ)として、それでいて深く、何処まで行ってもその先があるような(ひとみ)だった。 「…………空は、……雲一つない青空は、こんな色をしていますか?」  アシュラインは鏡の中の痩せて消え入りそうな少年から目を離せずに、背後の男へと問うた。  男は鏡の中の少年に見入ったまま何も答えなかった。  男が目を眇める。 「さっさと着替えるぞ」  苦々しく憮然(ぶぜん)として、アシュラインの装束(しょうぞく)に長い指を掛けた。固く結ばれていたはずの巻き紐が男の指に触れるだけで(ほど)けて、身に(まと)っていた薄布は全て石畳の床に滑り落ちた。  曇りのない肌が(わら)わになる。 「これは…………召使いにしておくには、ちともったいないか?」  独り言のように放った男は、恍惚(こうこつ)とした眼差しを無遠慮に少年へと注いできた。 「まあ、とりあえず、手が足りないんだ……召使いだな」  口角を(ゆが)めて息を()くと、男はアシュラインに下着やらシャツやら、よく着方の分からない上着を何枚か身に付けさせた。 「俺の名は、ミクワイア。本専門の鍵屋だ。お前の名前は?」 「アシュライン」 「俺は四の五の言うヤツは嫌いだ。仕事は一度で覚えろ」 赤褐色(せきかっしょく)煉瓦(れんが)の壁に、ランプの琥珀色(こはくいろ)(かげ)りが揺れて、アシュラインの目にはよく馴染(なじ)んだ。もう一度、空を見たい気持ちはあったが、初めての暁光(ぎょうこう)に眸が焼けそうになって、あの圧倒的な刺激に自分は耐えられないのではないかという気がしていた。  新しい屋敷の地下室は、陽光が差し込むことこそなかったが、幼い頃から過ごした地下牢とは異なって、肌寒さで粟粒を(こしら)えることもなかったし、仕事が与えられている以上、地下の空間を動き回らなければならなかった。何しろ覚えなければならないことが数多くあり、ミクワイアはすぐに機嫌を損ねる男だったのだ。  地下はミクワイアの仕事場になっているようで、何処の壁も一面、天井まで本棚になっている部屋と、アシュラインの寝起きする部屋、そして、小さな浴室と(かわや)と簡単な台所があった。  石壁と煉瓦の閉じた空間は、地下牢しか知らなかった少年にしてみれば、世界が(おだ)やかに広がったようで、仕事の合間の僅かな休憩には、本を借りて読んで良いことにもなった。  魔術で鍵を掛けられた本をもう一度読めるように復元することは、ミクワイアの仕事の一つだったが、長い間封印されていた書物の中には難しいものもあるようで、その日、彼は本棚をひっくり返して古い書物を(あさ)っていた。 「確か、この時代の(じゅつ)は、ややこしい前提作業を入れてから掛けられているはずなんだが、……あの本はどこに行ったんだか。最近じゃ珍しい仕事だから、見つかりゃしない」  ミクワイアは独りで喋っていることが多かった。こちらが返事をしてもしなくても大して気にもしていないようだったが、アシュラインは彼の独り言は聞き逃さないようにしていた。 「あの、……これは、違いますか?」  屋敷の主人が漏らす単語から探し物の憶測が付いたので、少年召使いは(すす)けた古書を一冊差し出してみた。 「あっ、それそれ! 助かった」  嬉々として受け取ると、鍵屋はソファーの端に座って、ページを(めく)り始める。わざわざ端に腰掛けなくとも、片付いてさえいれば、(ゆう)に三人は座れそうな布張りの調度品だったが、座面のほとんどに本が積まれていたのだ。ミクワイア自身も本に埋もれそうになりながら目の前の文字を追っていた。だが、三ページほど捲った指を、ついと止めた。 「……お前、これが読めたのか?」  ゆるりと(うかが)うような視線を召使いへ上向(うわむ)ける。 「文字は、世話をしてくれた人が教えてくれました。……でも、何となく、教わった字とその本の文字は違いますね。……何だろう? 何で読めたんだろう?」 「ここにある本は魔術が掛けられているから、人間には本当の中身は読めない。タイトルも知らない本だと素通りするように、簡単な錯覚の術を掛けてある。……そうか、アシュラインは魔術書が読めるのか。これは便利な召使いを手に入れられた」  ミクワイアは口角を上げて片笑むと、それからはアシュラインに本を貸してくれるようになったのだ。  地下牢に幽閉されていた頃は、時々セムが持ってきてくれた本と、ラシンが勉強したくないからと言って譲ってくれた教科書を、何度も何度も読み返していた。鍵屋の地下室で暮らし始めてからは、少年の新世界は確実に日々広がりを見せていた。  ミクワイアは「読める」召使いを遠慮なく使った。ただ、何でも「読める」わけではないらしく、中にはアシュラインにとって解読不可能な書物がある。そうやって仕事を間違えると、主人は少年を酷く叱責した。  低く(うな)るような声音で失敗を責め立てられた日は、どうしようもなく気落ちして、台所で主人のお茶を用意しながら、唇を()んで涙を(こぼ)した。落ち込むと涙の粒が流れることを、少年は初めて知った。  命じられた書物と書類の整理を、今日こそは抜かりなく遂行しようと(いそ)しんでいた時、主人が帰宅する音が地下へと響いた。 「客人だ。茶を用意しろ」  ミクワイアは短く、ソファーとテーブルを片付けるように指示した。 「あれ? ミクワイア、また召使いに逃げられたって噂を聞いたけど、もう次の見つかったのか?」  大きな野太い声が扉から入ってくる。そして、簡単に応接の空間を整えるアシュラインを視界に収めると、「……驚いた。人間の子どもか?」と声を(ひそ)めた。 「ああ、ちょうど良いのが手に入って助かってる。それより、リューゲン、封をしてほしい書類を出せ。どの程度の術が良いんだ? あんまり複雑なのを掛けると後でやっかいだぞ」  客の問いをあっさり受け流すと、ミクワイアは依頼内容の確認を始めた。だが、リューゲンと呼ばれた髭の男は、アシュラインが気になるようで、お茶の支度をする所作を視線で追い続けていた。 「あんまり人の持ち物を、じろじろ見んなよ」  召使いの話題は素通りしたかったようだが、依頼人の不躾な視線に、ミクワイアは苛立ちを露わにした。 「溜息が出るほど綺麗な子だな。それにずいぶんと従順だ」  そう言ってリューゲンは本当に長息(ちょうそく)()いた。 「やらんぞ」 「いや、どこで手に入れたんだか知らんが、怖くてもらえない」 「ロマーカの供物(くもつ)頂戴(ちょうだい)した」 「そりゃ、盗みだろ?」  髭の男は口元まで運んでいた茶器を慌てて下ろした。 「あの地域の神は一年ほど前に死んだ。もうそろそろ死灰(しかい)の中から新しい神が再生するころだ。神が()()に日照りでも続いて、生贄を出したんだろ? どうせあんなところに(そな)え物をしたって、今は空っぽの墓だ」  ミクワイアはゆったりと皮肉めいて片眉を引き上げた。  鍵屋の話にリューゲンは口髭を撫でて思案顔(しあんがお)になる。 「確かに。それに、ロマーカの神は生贄嫌いで有名だからな。供物をしたのが、たまたま墓でよかった。しかし、人間は愚かだな。なぜわざわざ神の怒りを買う真似をする?」 「あれは排除の仕組みで村の秩序を保ってるんだ。一部の人間を排他的な存在に仕立て上げることで、マジョリティは結束が強くなる。人間のご都合主義を通すために、神を方便(ほうべん)に使っているだけさ」  ミクワイアは苦々しく眉根を寄せると、葉巻の箱に手を伸ばす。 「……こいつは最初から従順だったんだ。普通、突然何処か分からん場所に閉じ込められて『仕事しろ』と言われたら、理由や事情を聞くなり、帰してくれと懇願(こんがん)するなり、ちっとは動揺するだろ? 慣れてんだよ、自分の運命をただ受け入れることに」  葉巻に刃を入れて、薄い唇に挟むと、鍵屋の男はマッチを擦った。 「(まっと)うな鏡像段階を経ていないらしい。自分が生まれ落ちた世界をまともに知らないんだ。……ま、俺としちゃ、魔術にも抵抗ない人間の方が使いやすくていい」  溜息のように紫煙を吐き出すと、ミクワイアは初めて部屋の端で直立するアシュラインほ方を眼差(まなざ)した。 彼の真紅の虹彩が揺れているように見えて、少年召使いは主人の思案がどこにあるのかを掴めず、それがどうにも落ち着かなかった。 「……しかし、何にせよ、お前は手癖が悪いな。墓場の供え物を持って帰ってくるなんて」  リューゲンは苦く笑って、呆れ声を出した。 「供え物の摘まみ食いぐらい、するヤツ、たまにはいるだろうよ?」 「…………喰ったのか?」 「は? ものの例えだ。何を言ってる?」  客人の指摘に主人はまだ火を(とも)されたばかりの葉巻を灰皿に押し付けた。  それから、リューゲンは幾つかの本の書き換えを依頼し、ミクワイアと小難しい話をした。 歴史ある書物は強い魔力でしか書き換えることができない。それを読んだ人々の記憶ごと変える作業は、他の書物への影響もあるので、煩雑な手続きも必要らしい。アシュラインは、自分の主人がそういう資格や力を持つ魔術師であるらしいことを、この日新たに知って、ふと自分の中である思いが一筋の煙のように立ち昇るのを感じた。しかし、それは主人の(くゆ)らせた紫煙と同じく、部屋の中に(まぎ)れ、それでいて残り香だけが揺蕩(たゆた)って、胸の奥に静かに積もっていった。 帰りがけに口髭のリューゲンはアシュラインに給仕の礼を述べた。 「美味しいお茶をありがとう。また、来るよ」  満面の笑顔と愛想の良さで、手を差し伸べられたので、少年は握手に応じようとする。 「人の物に触るな」  主人が二人の間に割って入ると、客人は眉尻を下げて苦笑(にがわら)った。  依頼人がいなくなると、ミクワイアは目に不興(ふきょう)の色を浮かべて、もう二度と客の対応をしないことと、来客がある時は部屋に戻っていることを、アシュラインに約束させた。 石畳の廊下に水を張った(おけ)を置き、布を(ひた)して(しぼ)る。それだけの所作で少年は自分の細いだけの身体が、僅かに(たのも)しく変化してきているのを感じた。  固く絞った布は、埃っぽい仕事部屋の棚やら机やらをすっきりとさせてくれる。以前は、主人が好きで散らかしているのだと思っていたが、片付いている方が仕事も(はかど)るようなので、命じられたわけでもないが、アシュラインは目覚めるとすぐに掃除をするようになった。 「アシュライン、ついてこい」  一通り清掃が終わる頃に、ミクワイアは朝食を持ってきてくれる。だが、その日は地下の部屋から階上に出てくるように指示された。  外套(がいとう)を羽織った主人の背を負って、階段を踏みしめながら、少年はある懸念に(さいな)まれた。初めての陽の光が双眸に突き刺さるようだったので、まだ見ぬ白昼の天空に(さら)されることに躊躇(ためら)いがあったのだ。すると、地上階への扉の前でミクワイアが立ち止まる。 「眩しかったら、マントの下に入ればいい」  そう告げると、彼はアシュラインへと手を差し伸べてきた。アシュラインがその長い指に微かに触れると、そのままその手に巻き込まれ、固く結ばれた。手を握られてしまうと、もう少年の胸の内にあった(かげ)りは霧散(むさん)していた。  導かれて、屋敷の一階の廊下を抜け、食堂を通り過ぎ、更に階段を上った。どの部屋もカーテンが引かれていたが、アシュラインにとって、これほど光の粒子が溢れている空間は初めてだった。  何処まで上るのだろうか。階段を踏みしめるごとにミクワイアにしがみ付いてしまう。  しがみ付かれた方は、アシュラインの肩を抱き寄せ、マントが緩く少年の頭から肩にかかるように(ひるがえ)した。  アシュラインはミクワイアの腕の中で階段を踏み進める足を止めなかった。 「俺の部屋だ」  上り切った所で、ミクワイアは腕に収まった少年の顔を覗き込んだ。この扉を開けたら何かがあるのだろうか。アシュラインは目顔で尋ねたが、腕の主は吐息(といき)で笑っただけだった。 「どうぞ。入って」  そこには世界の色があった。  少年は張り詰めた光と濃密な空気を一気に吸い込んで、み空が降ってくるのを全身で受け止めた。万物がその下に生まれ落ちる、その天に身が溶けていくような気がした。  青空は(りん)と澄んでいるのに慈悲深(じひぶか)く全てを包み込んでくれる。  本当に目にした青い青い空は、少年の想像を遥かに超えて、ただただ青かった。 「天窓って言うんだ。空に向かって屋根を切り取った窓だ」  世界の濃度に酔ってしまいそうなアシュラインを、ミクワイアは頑強に腕で受け止め、抱き締めてくれていた。 「お前に見せよう、見せようって思っていたんだが、ずっと天気があいにくで。今日は綺麗に晴れたから」  そう告げる魔術師は言葉を忘れた少年の目元に指で触れ、眩しくないかと目顔で尋ねた。少年は頬を綻ばせて頷いた。  初めて入ったミクワイアの部屋は天井の半分が窓になっていて、部屋の床面積を大きくとったベッドが置かれていた。主人は召使いをそこへ腰掛けさせると、今日はそこから動かなくていいと命じた。その言葉通り、ミクワイアはアシュラインに、食事を運び、お茶を振る舞い、時の移ろう天の姿を追わせ、その眩さに眸が疲れると彼を自分の胸に収め、閉じた瞼に口づけた。 「ミクワイアは、どんな本も書き換えることができるの?」  アシュラインはそれまで主人のことについて自ら尋ねたことがなかった。 「中には難しいものある。仕事ならやらなければいけないが、ただ、世の中には書き換えてはいけない書物もあるからな」 「……村の掟が書かれた本は、……書き換えてはいけないものに入る?」  アシュラインはミクワイアの肩に自分の蟀谷(こめかみ)を乗せたまま、男の顔を見上げた。すでに傾き始めた陽光が、アシュラインの白銀の髪に金色(こんじき)を重ねて、輝きが波打っていた。 「と言うよりも、むしろ様々な人が思惑を持って、長い年月伝えてきたものは、かなり強い魔力がないと変えられない。俺一人では無理かもしれない」 「どうしたらできる?」 「……そうだな。……お前も修行するか? なぜか理由は分からんが、アシュラインは魔術書が読めるから、やってみる価値はあるんじゃないか?」 「教えてくれるの?」 「…………まあな」  少しそっぽを向いた魔術師は、然無顔(しかながお)で黙りこくった。 「それは、そんなに難しい? 僕、頑張るよ?」 「いや、努力はもちろん必要だが、……お前に魔力を移す作業がな、その」  口を(つぐ)みがちな男に、少年は小首を傾げて、見つめ上げた。 「どんな努力もできると思う」  アシュラインの言葉にミクワイアは長々と息を吐き、「俺に付け込ませないでくれ」と酷く掠れた声音を出した。  (にわ)かに、ミクワイアはアシュラインの指を口元に運ぶと、そこへ幾度もキスを落とした。その口づけは額に移り、蟀谷(こめかみ)に、耳元に、首筋に(つた)って、最後は少年の唇へと重なった。 「……嫌か?」  ()き声のミクワイアにアシュラインは「嫌じゃないよ」と首を振った。 「本気で嫌だったら言え」  迷いを振り払ったかのように、男は少年の着衣を取り去り、その身を横たえた。  上から(おお)(かぶ)さる男の髪が、天体を(たた)える夜空のようだと思った。彼の長い指が、長い髪が、肌に触れると心地よく、そこが熱を持つのを感じた。  啄むような口づけが、深く、更に、深くとなっていく。それが堪らなくなって、アシュラインは喉声を漏らしてしまった。顎から首へ、首筋から肩へ、移り行く唇に、身体(からだ)が小刻みに震えた。だが、ミクワイアの唇が胸の突起まで達した時、今までとは異なる(しび)れが足の爪先まで走る。執拗にそこを刺激されているうちに、アシュラインは生まれて初めて感じる浮遊感に見舞われた。 「もう、いったか」  ミクワイアの声が艶然としていて、アシュラインはもう一度身震いした。そして、なぜかまだ足りない気がした。 「ミクワイア、もっと、して?」  一瞬、動きを止めた男が、大きく息を吐く。そして、突如、怒気を(はら)んだように、唇を奪っていく。二人の舌が(もつ)れ合う。胸苦しくて、それでいて、甘く(ただ)れるように、身体が火照(ほて)った。  男の肩越しに見える天窓には、いつの間にか星が一つ二つと数を重ねていた。  不意にミクワイアの指がアシュラインの後ろに触れた。それだけで、(しび)れるような愉悦が背筋を走って、嬌声(きょうせい)を上げてしまう。 「お前が姑息(こそく)な手を使うから。こっちもな」  鍵屋をなめるなよ、と隘路(あいろ)に指の腹をゆるりと()わせた。そのたびにアシュラインは夜空の色の髪を持つ男にしがみ付き、身を戦慄(わなな)かせた。もう一度、大きな浮遊感に達しようとした時だった。先ほどまでミクワイアの指が触れていた場所に強い圧迫感を感じた。  息を詰めて、更に目の前の男の肩を強く握る。苦しくてならないはずなのに、そこに感じる充溢感(じゅういつかん)(たま)らなく、アシュラインは満たされていく。  身を揺らされるたびに、天高く昇っていくようで、アシュラインはミクワイアと一緒なら空の上まで行けるような気がした。 「ミクワイア、このまま一緒に空まで飛んでみたい」 「そのつもりだから、安心しろ」  その言葉にアシュラインは自分の身はこの男に預けようと思った。この男が一緒ならどこまでも高く、高く昇ってしまえる。  ミクワイアは約束を守るように、アシュラインと固く手を結び、二人して夜空の更に向こうへと飛んで行った。

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