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【君の名を 教えて】honolulu
〈 男は、
戦いで傷つき記憶をなくしていた。
暑く砂だらけの戦場で、
傭兵集団とはいえ正規の雇用された部隊に所属していたから己の名前と出身地はわかった。
療養のために傭兵を辞めて戻った自分の出身地だというその地。
黒い森がどこまでも続くその地。
しかしそこには何も思い出すきっかけになるものはなかった。
残念なことに、
親兄弟、親戚に至るまで彼にはいなかったのだ。
俺は誰なんだろう、そして、どうしてこんなに俺を知っているものがいないのか……
自分の過去を知るたった一つの手がかりは少ない所持品の中にあった写真。
とても美しい月の夜の写真、そこに移る地形的なわずかな伝手を頼りに男は海辺の街にやって来た。
そこは男の出身地から程遠く、彼の住所があった北の街から長距離を辿るバスを乗り継ぎ三日ほどかけて行かねばならぬ南の海辺の街だった。
着いた所で知り合いがいるわけでもなく、適当な所に宿をとった青年。
彼はまだ青年と言っても通るほどの若さだった。
この国では珍しい黒い髪に灰色の瞳。
誰でも彼とすれ違うと、はっと見つめなおしてしまうほどの美貌を青年は携えていた。
けれどその瞳は哀しみに濁り、決して相手を見ようとはしない。
手がかりを探しながら、求めるものは見つからず、この街に来てからもう三ヶ月。
彼は所在なく海を見つめる毎日を過ごしている。
その日は珍しく朝から穏やかな光が海辺の街に降り注いでいた。
宿より少し遠くの浜辺まで足を延ばす気になったのはそんな気候のせいかもしれない。
クリーム色の砂浜に透明な波が打ち寄せる。ザザ、ザザと聞こえるリズムに乗って傷ついた脚を運ぶ。
彼の無くしたものは記憶だけではなく、闊達に自由に力強く動き回る左脚の機能も失くしてしまったのだった。
疲れてきた彼は砂浜に転がっていた流木に腰を下ろす。
陽の光をチラチラと光の粒になって返す波を見つめながら、何か手がかりはないかと目を瞑った。
暫く意識を手放して居たらしい、気がつくと少年の声が側でする。
「 寝ているの?もう少しで雨が降ってくる。ここから去ったほうがいいよ 」
ビロードの様な音色、声変わりする前の少年独特の甘い声に目を開ける。
覗き込む様な姿勢で彼の近くにしゃがみこんでいるのは、
なんとも美しい男の子だった。
銀色から碧まで混じる髪の色、真珠色の肌そして琥珀色の瞳は涙の雫を垂らした様に柔らかく光っている。
「 雨がくるよ 」
彼に手を差し伸べる。
思わずその少年の手を掴むと、
「 立って 」
と言われて腕を持ち上げられた。
「 案外力があるんだね 」
間抜けにもそんな感想を述べると、
「 早く!」
と、そのまま引きずられる様に浜を後にした。
海岸沿いの舗道に上がりこじんまりとした花屋の店先に入った途端、
雨がザーッっと降ってきた。
「 本当に雨だな 」
と呟き隣を見るともう少年は居なかった。
「 夢か?」
掴まれた手首が少し紅くなってその少年がいたことを確かだと伝えている。
雨宿りさせて貰うのにと、奥に声をかけるついでに少年の事を聞いてみると、中にいた中年の女はただ首を振った。
「 最初っから、あんた一人だよ 」と。
やがて雨も止んだので、目についた店先のアネモネを買って帰路につく。
朝から何も食べてないことに気づき、途中の食堂に入ると、そこは青と濃紺と二色にまとめられた室内。
初めて入ったはずなのになぜかとても懐かしい気持ちになった。
帰るまでには少し話す様になった人懐こい男の給仕に今度色々聞いてみようか。そのまま給仕に持っていたアネモネを渡すと、柔らかく微笑んだ唇になぜだか甘く疼く気持ちが込み上げてくる。
何を見ても聞いても、心が動かない毎日だったが、
ああ、まだ枯れてなかったかと、
少し元気が出て月の光の冴える道を宿まで帰った。
暫く天気が悪い日が続いた海岸の街。今朝は朝から雲一つなく、太陽の陽差しがしっかりと地面にまで届いていた。
宿の狭い窓から砂浜を眺めると、天気が良い日は砂浜はクリーム色に輝いている。
ふと先日あった少年の事を思い出し、
又会えるかなと珍しく動いた心に散歩に行く支度をした。
何日か前と同じ様な日なのに、波の音や砂をキュッキュッと踏む時の音が違って聞こえる。街の街路樹も透き通る様な緑に色づいてきた様だった。
「 着いた時には灰色に覆われた街だったのにな 」
独りごちて周りを見回すと少し離れた船着場の小さな桟橋に海の方を向いて座っている少年を見つけた。
「 この間は、ありがとう。濡れずにすんだ、助かったよ 」
ふっと男を見上げる少年の足元に目をやり驚いた。
アネモネの花が船着場の桟橋に静かに打ち寄せる波の間に漂っている。
「 その、花は?」
思わず問いかけると、少年は口を開く。桜貝のような唇から囁くような声が聞こえる。
「 ◯◯が好きだったから 」
「 え?」
「 ◯◯ 」
二度と伝えられた言葉に名前らしきものが含まれたことはわかったのに、肝心の◯◯がどうしても頭に入ってこない。
霞のかかったような頭の中に小さい痛みを覚えて思わずその場にしゃがみこんだ。
暫くしてから息を吐き出す。頭を振ってみたら痛みはなくなっていた。
横で黙ったまま海を眺めている少年に、
「 君の名前は?」
と問いかけると、
『 僕の名はルーシェン 』
頭の中に直接語りかけるように声が聞こえてくる。
「 ルーシェン……ルーシェン
そうか、俺の名は 」
そう言いながら、一羽の海鳥が波間に光るなにかをめがけ降りてくる姿に目を奪われた。
『 知ってるよ、あなたの名前は
ノワ 』
「 何故知っている?」
と振り返るとそこにはもう少年の姿はなかった。
座っていた場所に残された一輪のアネモネ。波間に漂うアネモネは漣に揺られて顔を出したり潜ったり、まるで桟橋に置かれたアネモネと会話をしているように見える。
「 ルーシェン、また会えるのかな」
頭の中のもやもやとした霧の中に何か人影が形を成した。
届かない記憶の先はなにが待っているのか。考えてもいまはまだわからないと首を振った。
先日と同じ花屋の店先で先日と同じアネモネを買う。
その花を持ちブラブラと宿の方に歩いて行くと、真っ白なパラソルを開いた食堂の前でこの間花を渡した給仕が木の古いテーブルを拭いている。
「 やあ 」
と声をかけると水兵のような横縞のシャツを着た青年は驚いたように振り向いた。その表情が記憶の琴線にチリっと触れた気がした。
「 お昼ですか?まだハマグリのパエリャがありますよ 」
「 もう、お昼は過ぎたのか?」
と声をかけながら、自分がそのパエリャが好物なことに気がついた。
なぜ?と思いつつも、にんにくとトマトを焼く良い香りに誘われてテーブルにつく。
食べたい、という衝動も久しぶりだなと思いながら、軽めのスパークリングワインを追加する。
脚の怪我を負ってから避けていたアルコールまで解禁するとは、
だいぶ気持ちも落ち着いたのかと一人青い空を見上げると、やはり海鳥が水面を狙って下降するところだった。
食事が終わるとテーブルで会計ついでに青年に話しかけてみた。
「 この辺に学校はあるの?」
ルーシェンの歳頃だと学校へまだ通っているだろう。
「 学校?ですか、お客さんの来た方向にひとつあります 」
お客さん、というか言われ方が寂しくて更に言葉をかける。
「 ノワ、でいいよ 」
「 ノワ……ノワさん? 僕は」
と彼が言いかけたところで奥の店主から声がかかり、会計の終わった俺は話は又今度にするかと席を後にした。
その夜は不思議な夢を見た。
満月の浜は月明かりで蒼く照らされ、俺は一人で海を見ている。いや、一人じゃない、隣にはルーシェン?
違う違う、もっと髪の長い、振り向いてくれ顔が見えない。横にいる男は俺だろ?なぜ顔がわからないんだ!
こっちを向いて!と叫んだ声で目が覚めた。
その日から一週間も雨が降って、ついに八日目小止みになったところを天候の加減で痛む脚を引きずり砂浜に出てみた。
空も雲も海も辺り一面灰色の世界。
会えるはずもないか、誰に?
あの少年に?それとも給仕の青年に?
惑う気持ちを宥めながら、重い砂に変わった砂浜を歩く。
天気の日の倍もかかって前に少年と出会った場所に来ると、そこには萎れたアネモネの花が一輪雨に濡れていた。
ルーシェンがここで俺を待っていたんだと何故か確信した俺は彼を探すために桟橋の先の崖の方に行ってみることにした。
近いと思った崖は案外遠く、小一時間歩くと崖の麓に洞窟が見える。そこの前にルーシェンの姿が小さく見える。
「 ルーシェン!」
と叫びながら
使えない脚を叩きながら急いで近くまで行くと、ルーシェンは足下を花に囲まれて雨の中に佇んでいた。
細い身体のシルエットに濡れた服が張り付いている。
「 どうして?俺を待っていた?」
と聞くと、濡れて蒼白になった顔色で頷いた。
「 一週間ノワを待ってた 」
まさか!でも足下の花は全て萎れたアネモネの花。
「 なんでそんな無茶なことを 」
寒さで小刻みに震える身体を抱き寄せると、彼の髪からはベルガモットの香りが薄っすらと香る。心臓を鷲掴みにされるような胸を甘く融かすようなその香りに、頭の中に情景が浮かんできた。
俺はこの洞窟を知っている!
何かの穂先を掴もうと目を瞑ったノワにルーシェンの
『もう少しだよ、もう少し奥へ』
という又頭の中に直接注げるような声が聞こえてきた。
手を引かれ洞窟の奥に行くと、細い岩の通路が急に広がり、目の前には狭いが白い美しい砂浜が現れた。
『 ここだよ、覚えてる?』
ノワは閃光が走ったように目の前の砂浜を食い入るように見つめる。
「 知っている、知っている俺はここを知っている 」
そこまでで、記憶は又プツリと途切れる。
隣に座る少年の身体が冷え切っていることに気づいたノワは自分のコートをルーシェンに被せると、落ちている流木を集めて持っていたライターで火を付けた。
あったかい……
と囁くルーシェンの服を脱がして乾かそうとした時に、ゾクリと背筋に何かが走った。それは覚えがあるもの……
火が灯る中、真珠のような肌を見せる少年はまだ大人になりきれない特別な甘さを持っていた。
思わず掛けたコートごと抱きしめ、
目の前の桜貝のようなピンクの唇を吸うという誘惑には勝てない。
最初は浅かった口付けも、ルーシェンの抵抗がないことを理由に薄く開いた口の中の小さい舌に、厚い男の舌を絡ませた。
ベルガモットの香りがきつくなる。
その香りに強くしなる鞭が鳴る
ビンッ、という音と共に、
突然鮮明に記憶が蘇ってきた。
この唇の感触、甘い唾液、ほんのり色づく真珠色の肌、そして愛撫に揺れる乳房……
え?乳房?
ルーシェンにそんなものは付いていない。俺が口付けをし、抱いているのは誰だ?
" あぁ、ルカ!俺の恋人はルカだ "
ルカ!と叫んだノワは目の前の今まで抱いていたルーシェンを凝視する。
似ている、だけど、ルカじゃない
そして、ルーシェンはまだ少年だ。
自分の堕ちた行為に、
その罪の深さに後悔するノワ。
『 思い出したんだね 』
ルーシェンの声が頭の中にこだまする。
こっちへ来て、と手首を掴まれて連れられるまま砂浜の向こうに歩いて行くと、砂浜の向こうの足下は高い崖になっていた。
暗い波の色の合間に、アネモネの鮮やかな色が舞っている。何百本と波に揉まれるアネモネになぜかここで恐ろしいことが起きたことを知った。
『 わかったんだね、ルカはここで身を投げた。雨が降ってちょうど今日みたいな海が荒れた日に 』
俺の恋人だった人、ルカはもうこの世にはいない。
頭の中にこだまするルーシェンの言葉。
ある日ぶらりと海辺の街にやってきた
この国では珍しい黒い髪に灰色の瞳。
誰でも彼とすれ違うと、はっと見つめなおしてしまうほどの美貌の青年に一瞬で恋をしたルカ。
ノワも美しいルカとすぐに恋に落ちる。
だが、若い恋は残酷だということも忘れてはならなかった。
ノワが恋人を残しこの地を去った後、身ごもっていた事に気付いたルカはその命をこの洞窟の奥、二人愛し合った場所で絶ってしまった。
直接語りかけるルーシェンの言葉。ノワは何時間そこで崖から海を見つめていたのだろう。
気づいたら側にルーシェンは居らず、海はすっかり闇に包まれていた。
黒い油を流したような波と岩に空が当たった時に砕ける白い冷たい泡。
あの別れは、
ノワがこの変化のないつまらない街から去るため傭兵になるということをルカに突きつけた唐突な別れだった。
そして初めて知る、お腹にノワの子がいたという事実。
そして、その大切な命はもう、抱くことも、あやすこともできないという事実。
蘇った記憶はあまりにも残酷だった。
暗い海はノワの足下で大きく口を開けている、そのまま脚を滑れせろ、お前は生きていてもしょうがない。
戻った記憶と
無くした命、残ったのは脚を引きずるまともじゃない身体。
絶望したノワを飛び込ませる事を止めるものは何もなかった。
ノワの身体が崖の上から消えるのを見ているものは誰もいない、月も星さえ出ない漆黒の夜の中にノワは落ちていった。その波間に消えたノワの身体を覆うようにルーシェンに掛けたコートが夜の海に舞っていく。もうアネモネの花の姿もどこにも見えなかった。
海鳥の鳴き声が聞こえる。空につんざくような高いその鳴き声に、ゆっくりと目を開ける。
穏やかな陽の下でボンヤリと太陽を眺めていると
『 起きて 』
と、頭の中に直接囁きが聞こえる。
「 寝ているの?もう少しで雨が降ってくる。ここから去ったほうがいいよ 」
ビロードの様な音色、声変わりする前の少年独特の甘い声に目を開ける。
覗き込む様な姿勢で彼の近くにしゃがみこんでいるのは、
なんとも美しい男の子だった。
銀色から碧まで混じる髪の色、真珠色の肌そして琥珀色の瞳は涙の雫を垂らした様に柔らかく光っている。
「 雨がくるよ 」
彼に手を差し伸べるのはルーシェン。
記憶にあるルーシェン。
記憶にある暗い冷たい海の水。
何かの手に手首を掴まれた。波に揉まれているときに、強く手首を引かれた。
俺はルーシェンに助けられたのか?
どうしてこの少年は自分を助けるのだろうか?
「 なんで、ルーシェンが俺を助ける?」
「 ノワの恋人はルカ。ルーシェンとルカは双子だった。
ルカは赤ん坊の時にルーシェンが死んだから助かった命だったんだ 」
双子で産まれたルカとルーシェン
不吉だと言われ泣く泣く片方の赤子の命を絶った時に、
ルカが死んだらもう片方を生き返らせるという神との約束。そして神は叶えてくれた。
「 まさか、君がルカの生き返り?」
「 それは違うよ。ルカのお腹の子どもが生き返りルーシェンになったんだ。
僕は ルカが見せる夢の使者みたいなもの、
これでサヨナラだよ、ノワ」
「 待って、ルーシェン、待って!」
見回しても誰もいない、
夜明けの砂浜に一人残されたノワ。
近づく足音は一つ。
その砂を踏む裸足の足音は真っ直ぐにノワに向かってくる。
陽光を背にし向かってくる青年の顔は見えないが、そのシルエットは間違いなくあの食堂で働く若い男のものだった。
『 名前を尋ねてノワ 』
心に染み入る声がする。
蘇る愛おしさに、
「 君の名を教えてくれ 」
頷く目の前の青年は、ルーシェンだった。
砂浜に座り語り合う二人、最初に会った時に彼に惹かれたことを思い出すノワ。
これから俺たちはどうなるのかわからないが、
亡き恋人の見せてくれた夢。
あの少年もたしかにルーシェンだったんだ。
この夢を大切にしようとノワは誓う。
美しい月夜の海を見つめるのは一人ではなく、
そしてアネモネの花がもうその波間に散ることはない。
end
アネモネの花言葉:
はかない夢、薄れゆく希望、はかない恋、恋の苦しみ、見放される、悲しい思い出、君を愛す、固い誓いなど、
切ない言葉が多いのは、アネモネの悲しい伝説に由来するそうです。〉
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