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【 ― 蒼い光の下で ― 】佐藤

 駐車場から遊歩道を歩いた。  探し物はみつからない。  いや、はたして探そうとしているのだろうか。俺は。  落し物を見つけるには都合のいい月夜だった。  ただ、その月のあまりの美しさに気取られるあまり、当の目的がおろそかになっていることはなんとなく自覚していた。  見上げれば、そこには見事な蒼い月。  その明かりのせいで、世界のすべてがまるでディテールまで精巧に作られた模造品のようだ。  太陽が生を象徴するというのならば、今夜の月は、さしずめその生気を吸い上げる力をその淡い光に宿している。  そして、海から聴こえてくる(さざなみ)が、この世のものではない者たちの魂を、静かに、誰に気づかれることもなく、そのイミテーションにとり憑かせ、妖しげなものたちへと変容させているように思えた。  婚約者の失くした指輪のことなど、もう頭の中にはなかった。  浜辺沿いに群生する浜木綿(はまゆう)の白い花の中を歩く。  ふと気配を感じた気がして視線を向けると、蒼い光に縁取られたいくつもの花たちが、息をひそめていた。 「――」  ざわざわと落ち着かない気持ちでそれらを気にしながらも砂浜へ下りると、砂の中へ沈んだ分だけ、ぐにゃりと視界が歪む。  はっと目を凝らすが、そこはやはりさっきまでの妖しげな蒼い世界。  なんとなくほっと胸を撫で下ろし、仄かに蒼く光る砂を踏みわけ、波打ちぎわまでゆっくりと進んだ。  月がなければ深い闇に覆われる海も、今は波打つたびに蒼い光があちこちでたゆたい、漣の音が、それらが嬉々としている様子を想像させる。  後ろで静かに息をひそめる白い花たち。  蒼い砂浜。  歓びを表現する波。  すべてが蒼い美しい世界――。  自分の立つそこは、いったいどこだっただろう。  何かを忘れている。  それは分かるのに、その何かは記憶から消えてしまっていた。  ちゃぷん、と寄せる波音とは違う微かな音に、無意識に顔をそちらへ向ける。  するとそこにはいつからいたのか、すらりと細い肢体の若者の横顔。  目が、吸い寄せられる。  「――……」  満ちた月の蒼い光は、まるでそのためだけにあるかのように、その姿形(かたち)を照らしていた。  遥か遠くから、さえぎるものなく降りそそぐ、その蒼く澄んだ光。  それを(まと)う髪は、光そのものを吸いこむ絹布(シルク)のような、滑らかな銀白色。   透きとおる肌は瑞々しく、なにより、その薄い口唇(くちびる)と、(まなじり)の上がった涼やかな目元の奥にある瞳は、鮮やかな(しゅ)に色づいている。  ゆらゆらと揺れ動く海を眺めていた少年の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。  どくり、と心臓が跳ねる。  自分の視線と少年のそれとが、蒼い妖しげな気配の漂う宙で、絡まり解けなくなった細い糸のように交わった。  小さな結び目は、どうやっても解けない。  だが、外からの強引な力で容易に切れる、糸。  ぴんと張り詰めたアンバランスさが、不安を掻き立てる。   その緊張を緩めるかのように、見つめ合う少年の目が、ふいに細められた。  薄い微笑を浮かべたその唇が、ゆるりと開き、何ごとかを呟く。  しかし(さざなみ)の音が邪魔をして、それは俺の耳には届かない。とりとめのない不安に眩暈(めまい)のしそうな俺は、確かな何かに触れたくて、ゆっくりと少年に近づいた。  視界に入る少年がその中で大きくなってゆくごとに、その人には持ち得ない美しさに惹きこまれてゆく。  それとともに、胸に巣食う不安が徐々に霧散していった。  さく、と砂浜をふみ、手を伸ばせば届くほどの距離まで来たとき、少年が小さく首を傾げた。  その(あか)い瞳で、俺の目をじっと見つめたまま。 「綺麗な、目――」  透明感のある不思議な声だった。初めて聴くそれに気をとられ、一瞬、何を言われているのか理解できない。  しかしそれが自分の色素の薄い、灰色(グレー)に見える瞳のことだと気づく。 「……先祖がえり、だそうだ」  血の繋がった親族の誰にも、こんな目の色の人間はいなかった。  ただ、古い祖先が、北欧から渡来してきたこらしいということだけは知っている。 「へえ? でも、髪は黒いんだね」  落ち着いているのに、どこか嬉しげな声。  波の音をさえぎることなく、それなのに波に共鳴しているかのように少年の声は響く。  少年がゆっくりと手を伸ばす。  髪に触れたいのだろうかと少し頭を下げると、彼の手は思いのほか優しく髪を(すく)いあげた。 「柔らかい」  くすっと笑う少年に、なんとなく気恥ずかしくなり、彼を驚かさないようにゆっくり頭を元の位置に戻した。 「もう、終わり?」  残念そうに口にするが、少年は楽しげだ。  声を出すたびに動くその朱い唇に、意識が向いてしまう自分に複雑になりながら、なんとか平静を装い、今度は自分の手を伸ばした。  さら、と少年の耳の横にある銀白色の髪に指を差しいれる。  見た目どおりに(あで)やかなその繊細な髪は、少しひんやりとしていて指先が気持ちよかった。  あまりの手触りの良さに、何度もその髪を手の中で遊ばせる。  するとくすぐったかったのか、少年が肩をすくめて笑う。 「あ、悪い」  思わず手を引っ込めた俺に、少年は目を細めて首を振った。 「気持ちよかったよ。――あとは?」  あとは、と問われたのはわかったが、その意味はわからない。  それが表情に出ていたのだろう。少年がそっとその細く白い手で、俺の手をとる。  そして、その手を両手で包むように握ると、ゆっくりとそれを自分の頬へ近づけた。 「っ、……」  触れた少年の肌の、まるで天鵞絨(ビロード)のような手触りに、俺は思わず指先でそこを(さす)り、その感触を確かめた。 「くすぐったい」  そういいながらも、自分で押し当てた俺の手を離しはしない。  許されたのをいいことに、俺は遠慮なく彼の頬を、細い顎を、そして小さな頭の横についた耳朶にまで指をのばし、その肌理細やかな肌を堪能した。  次第に、俺は、我を忘れた――。  両手でその陶磁器のような整った輪郭をなぞり、滑らかな感触のそこにあるわずかな温もりに安堵しながら、気づけば少年のその細い肢体を俺は両腕で閉じ込めていた。 「……ん――」  少年の吐息と共に出されたその小さな声に、あらぬ場所がうずく。  戸惑い、深く息を吸い込むと、そこにあった少年の気配まで身体の中に取り込んでしまったようで、ますます熱が()まる。  もうその身体から離れることなど、考えられないほどに夢中になっていた。  少年に、惑わされたのか。  蒼い光に、酔わされたのか。  それとも――。 「もっと……」  それはどちらの声だったのか。  お互いしか見ていない二人には、もうそんな些細なことは関係なくなっていた。  引かれ合うように俺と少年の顔が近づき、微かな吐息を感じながら、朱いその唇に触れる。  ひんやりとした、その頬とは違う温度にも、何ら躊躇することなくそれを味う。  芳醇(ほうじゅん)なワインを舐めるように、少年の柔らかな冷たい唇を堪能し、いつしか二人の間にあった距離は、糸を通さぬほどに、近いくなる――。  深く、浅く、少年の唇を、そしてその内にまで侵入して、すべてを奪うように貪る。  (さざなみ)にまぎれ、ときおり耳へ届く濡れた音に、さらに煽られ、その細い肢体を抱きすくめた。  ひらひらと風に(なび)いていた少年のセーラーの隙間から、その肌に手を這わせ腰骨を指先でなぞる。 「っ……」  ぴくん、と小さく跳ねる身体と息をのむ声に、俺は今までに感じたことのないものを感じた。  胸の奥から湧き上がり身体中を満たす、打ち震えるほどの、歓び。  複雑な断面にぴたりと()まり、元の姿を取り戻したような、充足感。  それらがますます、俺の熱を上げてゆく。  浮かされた様に朱い瞳に見つめられながら、その肌をまさぐり、吸いつき、跡をつけてゆく。  気づけばさらさらと波にさらわれる砂の上に、少年を押し倒していた。  上半身を少し起こし、上から見る少年は、朱い瞳を喜びに潤ませ、その銀白色の髪は波がくるたびに水と(たわむ)れている。 「……――」  少年の朱い唇から、聞き取れない短い言葉がつむがれる。  それを聴いた瞬間、俺はそうか、と()に落ちる。  理解できないその音は、俺の中にあった遥か昔の、遠い記憶を呼び寄せた。 「ルーシェン――」  俺がそう呼ぶと、少年はほろり、と小さな花が咲くように微笑み、その長い(まつげ)を震わせた。 「やっと……やっと、会えたね。――ノワ」  その喜びに震える声に、愛おしさが増すと同時に、永らく彼を待たせてしまったことに胸が痛む。  だからその身の内にある想いのすべてをのせて、名を呼んでやる。 「ルーシェン。俺の――最愛の、恋人……」  そっと(まぶた)を閉じた彼の(まなじり)から、つー、と蒼に光る透明な雫が、こめかみへと伝う。  それを(すく)った指先で、彼の唇を撫でてやると、責めるように、だが、ねだるように眉を(ひそ)められた。  その懐かしい反応に思わずくすりと笑い、ますます機嫌を損ねた恋人に下から()めつけられた俺は、もう()らさずに彼の望みのものを与えてやる。  深く、深く――混じり合う気配に、俺は満たされる。  二つの魂が、溶け合う。  遠い蒼い水の惑星(ほし)に辿りついた瞬間、弾かれたように引き裂かれた運命の恋人(オム・ファタル)。  幾億の時間(とき)を超えてようやく見つけたお互いを、もう離すことはない。  何者にも邪魔されずに、永遠の時空(とき)を愛する者の傍らで過ごすのだ。  この、故郷(ふるさと)惑星(ほし)に似た、蒼く、美しい地球(ここ)で――。  砂に埋まった指輪が、きらりと光るの気づき、人として生きてきた記憶が蘇る。  だがそんなものは、腕の中で悦びに震える恋人の、潤んだ朱い宝石に見つめられたことですぐに消えてなくなった。  まだ若いこの蒼い地球(ほし)で、俺たちのような者を人間はこう呼んだ。  海に棲む怪物(セイレーネス)――と。 感想はこちらまで  →佐藤(@Satowaturime)

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