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【誰でもない誰か】深森きのこ

 軍服は堅苦しくて苦手だが、ネクタイというものも俺を縛るものである点は同じだ。いや例え私服でも、俺は縛られている。軍に所属している限り。そして、あの家の人間である限り。  町を出歩けば、振り返られる。指をさされる。どこにいても、誰かが俺に視線を向ける。先の大戦の英雄。その息子のノワィエ・ヴォル・ソグアータ様だ、と。俺自身はたいした武勲があるわけじゃないのに。憧れも崇拝も、必要としていないから、わずらわしいだけだ。常に複数の視線を感じながら歩くのは窮屈で仕方ない。だから俺はほんの僅かの休暇でも、こうして夜中の海を見に来る。一人きりの時間を求めて。  涼やかな風が髪をなぶる。夜中の海はノワの髪と同じくらい暗く、黒く、見える。誰もいない浜辺を一人、歩く。波の音が静かに繰り返されて、高ぶっていた心が静まっていくのが分かる。  分厚く重なっていた雲がふと途切れ、明るい月光が差し込んだ。その光に反応するかのように魚が跳ねる。月光に浮かび上がる海面はほの青く光っているように見える。幻想的な光景に目をこらすと、波間に、一つの人影が見えた。 ――何やってるんだ、死ぬぞ。  だが、声が出ない。どうしてか、声をかけた途端に消えてしまうかもしれないと思った。 ――馬鹿な。  非現実的だとかぶりを振ったが、引き寄せられる。目が離せない。波打ち際まで近づいて行くと、気配を感じたのか、小さな人影がくるりと振り向いた。  はっと目を見張るほど美しいその顔。色白な肌に、赤い唇がやけに印象的だ。少年と言っていいほどの年齢なのに、こんな時間に一人で海中にたたずんでいる。白い上着が月の光に照らされ、まるで輝いているように見えた。  この世のものではないのだろうか。そう(いぶか)しんだ時、少年が口を開いた。 「誰」 「……誰でもない」  名乗りたくはなかった。名乗る必要も感じられなかった。つい口にした言葉に、少年は毛ほども表情を変えなかった。 「誰でもいいけど、僕の邪魔をしないで」  素っ気ない声に、感情はない。 「邪魔をしたつもりはない。それに、それはこっちのセリフだ。俺はいつもここで一人の時間を楽しむ。今日はお前に邪魔されたが」  そう言い返しながら、自分のことを知らぬ者がいるのだと、ノワはどこかで安堵していた。 「で、お前は」 「自分は名乗らないくせに、僕のことは聞くんだね」  名前を尋ねたというよりは、こんな夜中に海へ入って何をしているのかという疑問だったが、少年は薄く唇を歪めて応えた。その顔は冷淡にも見えたが、ノワはその瞳に深い悲しみがよぎったように思えた。 「確かに……誰であるかなど、どうでもいいことだな」  つまらなそうに、けれどどこか切なく笑う。少年はそんなノワを見つめて、かすかに目元を緩めた。 「ルーシェン」 「え?」 「僕はルーシェンだよ。あなたは?」 「俺は……ノワだ」 「そう」  名字も、どこの誰かも、聞くことはなかった。二人は相手を呼ぶための名だけを交換し、視線を交わした。 「いつまでそうしているつもりだ? 服が濡れている。もう上がってこい」  ノワはそう言うと、返事を待たずに背を向け、浜辺に火を焚く準備を始める。ルーシェンがどうして海中に入っていったのか、もう問うことはしなかった。 「……」  躊躇っているように見えたが、ルーシェンはやがて自らの足を陸へと向けた。浜辺に戻ってくると、重そうに足をひきずりながら、ノワの起こした火のそばへとやってくる。そしてノワの背中にすがりつくようにして膝を折った。 「大丈夫か」 「……怖い」  呟くルーシェンの肩に手を回し、ノワは自分のコートを小さな体にかけてやった。 「さっきまで、何も感じてなかった。怖さも、冷たさも、何にも。でもあなたが……ノワが上がってこいって言って……急に、怖くなったんだ」 「そうか」  短く応えると、それ以上は何も言わず、ノワはコートごと少年を強く抱きしめた。その腕にルーシェンがぎゅっとしがみつく。大きな瞳に涙が浮かび、やがて零れ落ちた。 「ごめ……ん」  ノワはその優しさから視線を外し、焚火をいじった。木切れの間に空気が入り、火が少し大きくなる。 「明日から軍に戻るんだ」 「……軍?」 「休暇は今日まで。軍に戻れば、今度こそ前線だ。武勲を立てねばならん。もちろん死ぬことも出来ない。必ず敵の将を倒し、その首を持ち帰る」 「……」 「俺はいつだって怖い。なんのために生きているのか、それも分からん。だが……今、お前を守ってやれることを嬉しく思った」 「ノワ」  ルーシェンのくっきりとした目鼻立ちは、近くで見ると余計に美しい。上目づかいに見上げるルーシェンの瞳はまだ濡れていて、艶やかで、ノワはその美しさに息を呑んだ。 「ありがとう」  そう囁くと、ルーシェンはノワに口づけた。驚くノワから体を離し、頬を赤らめてはにかむ。 「ごめん、急に」 ――これが素顔か。  出会った時の冷たく、無表情な少年はもういない。恥ずかしげに唇を噛んでうつむいたルーシェンを見つめ、ノワは気づいた。自分が少年に魅せられていたことに。 「次の休暇にはまたここに来る。その時、また会おう」  ルーシェンの顎に指をかける。ルーシェンの瞳が揺れた。 「必ず、生きて戻るから。約束だ。満月の夜、またここで」  柔らかな声で、しかし力強く繰り返される言葉。 「……分かった」  お互いが誰なのかも確かめぬまま、はっきりとした日も定めぬまま、交わす約束。この戦いが終わって生還すれば婚約者との婚礼式が待っていることを、そしてそれが自分に課せられた義務であることを、ノワは頭から追いやった。  雲が満月を覆い隠す。もう一度、今度は深く口づけを交わした二人の姿は、夜の闇に消えた。

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