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第9話

 自販機で買った炭酸入りの飲み物を手に、密は幅の狭いベンチの奥に入った。紅茶を買った類は、少し躊躇ってから出入り口に近い端に微笑みながら腰掛けた。  距離を置かれるってことは本当は話したくないのか、と内心がっかりした密はパチパチと爆ぜる炭酸の飛ばす小さな飛沫を眺めていた。  口を開いたのは類の方だった。 「有本君、図書館(ここ)にはよく来るの?」 普段聞きなれない名字で呼ばれたため、それが自分のことを言っていると理解できずに密は暫くぽかんとして類の顔を見ていた。 僅かに(かし)いだ類の頭にはっと正気に戻る。 「(ひそか)でいいよ、みんなそう呼んでるから。ここ、うちから近い」 「ひそか君」 少し空気が多い、低いけれど柔らかい掠れた声。口の中で転がすようにゆっくりと発せられた音は自分の名前ではないようだった。 「ひそか、だけでいい、呼び捨てでいいから。俺、年下だし」 一瞬考えてから類の顔に控えめな笑顔が広がった。 「じゃあ、僕は年上だけど、呼び捨てで類でいいよ。誰かに聞いた?」 ああ、一つ上だという噂は本当なのだと密は思った。踏み込んでいいのか分からなかったけれど、好奇心が勝った。 「あの、俺三月三十一日生まれでクラスで一番下だから…でも、類がいっこ上だって聞いてる」 初めて呼び捨てにした名は、ぎこちなく耳に響いた。 口馴らしするように、心の中で何度も、類、類、類、と繰り返す。 「そう」 続きはなかった。 でもその沈黙は密にとって不思議に居心地が悪いものではなかった。さっきの自習席での緊張感が嘘の様だ。 正面にある窓の外に視線を遣ったまま静かにカップを口に運びながら、類が唇を動かした。それに気づいて隣を見ると、相手の顔もこちらに向いた。 「身長いくつ?高くて羨ましいな。僕は五月生まれだから二歳近く違うのに」 上背がある密を、首を傾げて微かに上目で見ながら微笑む。 音楽室で見たのと同じ、髪を短く切揃えた耳元に繋がるシャープな顎下のライン。外光が強くて眩しいのか、細められた瞳が繊細に光を反射している。 ストップモーションのように一つ一つの動きが密の脳裏に刻みこまれる。心が身体を支配してゆく。 「あー疲れた、ねぇ何にする?」 「眠いからコーヒー、カフェイン補給したいな」 近づいてくる足音と声に密は我に返った。 社会人らしい男女が自販機にやってきた。会話をしながら前を通り過ぎて飲み物を買っている間、二人は黙っていた。類はガラス越しに外を見たまま、密は手に持った紙コップに視線を落としたまま二人が去るのを待つ。 次の休みの予定を話す声が遠ざかって行くと、類は飲み終わったカップを畳んで立ち上がった。 「そろそろ戻るよ、また学校で」 答える代わりに片手を上げた。 自習席に戻って行く背中から目が離せない理由に、密はまだ気づいていなかった。

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