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第17話

渡り廊下の手前で類の足が止まった。顔を見ると、表情はかたいけれどさっきより大分血色が戻ってきている。 「放課後だから先生いないかもしれないけど、保健室行く?」 「ううん、もう大丈夫。教室寄って鞄取ってから帰る…」 その後歩き出さない様子に、一緒に教室に行ってほしいのだろうと密は想像してついて行った。 閑散とした校舎の中を、何も言わずにゆっくりと歩いて行く。 誰もいない教室の入り口で手を離し、一人で入って鞄を手に取る類に、密は耐え切れず言った。 「あいつ、前からホモだって言われてて、たまに気になる生徒を呼びつけてじろじろ見るんだって。だから準備室には一人で行くなって…、勝田にも言われたんだろ?」 準備室にいった類を責めるつもりはなかった。ましてや追い詰めるつもりも無く発した言葉だった。 「あいつ、まじ気持ち悪い!」 吐き捨てるように口をついて出たのは、密にとっては悪意のない、無自覚な気持ちの吐露だった。 この不快感が野尻の性的嗜好に対するものなのか、自分だけに気を許してくれていると思っていた友人が、忠告を無視してそこに行った事に対する苛立ちなのかすらよく分かっていなかった。 鞄を背負った類はうつむいたままその言葉を聞いていた。少しおいて、机に落としていた視線がゆっくりと上がって密を見た。 微かにひそめた眉、色素の薄い瞳はどことなく悲しそうでもあり、何かを諦めているようでもあった。 怒っているのは自分ばかりで、当の本人である類は黙ったまま。密はそこにイライラを募らせていた。 ――どうして怒らないんだ、もしかして分かっててあの部屋に行ったのか? 聞きたい言葉をどうにか押しとどめながら身じろぎもせずに入口に立つ密に、類がやっと聞き取れるくらいの声で話し始めた。 「前にね、ちょっと怖い目に遭ったことがあって…。何か言わなきゃとか、動かなきゃとか、今なら分かるんだけど、ああいう状況になると思考が停止しちゃうみたいなんだ」 表情も変えず、淡々と他人事のように話してゆく。話し終わった途端、類の身体からふっと力が抜けて、瞳が潤んだ。 泣く? 密は身構えたけれど、類は堪えるように唇を震わせただけで涙はこぼさなかった。 近づこうか、どうしようか。躊躇ったまま視線だけが二人を繋げている。 来ないでいい、と言われているような気がした。 「時々…」 震える唇が再び開いたけれど、類の言葉はそこで途切れた。 沈黙に耐え切れなくなり密が口を開く。 「時々、何?」 大きく息を吸って吐いた類が必死で笑顔を作って言った。 「じ、ぶんの、からだなの、に、おも、うようにならないの、が、もどかしい」 言い終わる前に、留めることができなくなった涙が目の端から零れだした。小さく嗚咽しながら、うつむいた類はたった一人で教室で涙を落としている。 その姿に、名前も知らない優しい衝動が密を突き動かした。 耐え切れなくなり、靴を放り出して荒い足取りで教室に入って、泣いている類の肩を両腕で包み込んだ。 その言葉が地学準備室で見た様子を差しているのかは分からない。 慰めるやり方なんか知らないから、ありきたりな事しか言えなかった。 「大丈夫だから…、できないことは誰かに助けてもらえばいい」 類の頭を自分の肩の方に引き寄せた。輪郭を伝って落ちてゆく温かい涙が、密の制服のシャツに染みをつけてゆく。 震える背中を腕の中に収めると、類の黒髪が頬に触れた。短いその髪にそっと指を通す。 「だ、れかに…って」 類が言おうとしているのはもしかしたら何か比喩的な、象徴的なことかもしれない。そのくらいは密にも分かった。 「俺でよければ、俺が、手伝うし…」 触れたところから身体が熱くなってゆく。そのまま飲まれそうになる気持ちは単なる気のせいだと、早くなる鼓動に言い聞かせた。 自分より少し背の低い身体を抱く腕に力を込めると、腕の中の類が自分に凭れてかかってきたのが分かった。 誰もいない静かな教室で、自分たちだけしか感じられない時間が過ぎてゆく。 遠くで走っている運動部の声が届いた。 ――そうだ、ここは学校なんだ。 密ははっと正気に戻り、冗談めかしてあやす様に類の身体を左右に揺さぶった。類が泣いていたせいか温度と湿度の高い空気か二人の周りに広がり、密は訳もなく泣きそうになった。 さらさらと頬に触れる類の髪を感じて、さっきの優しい衝動が、いつの間にかこのまま強く抱きしめて自分の奥深くに閉じ込めてしまいたい、という甘い独占欲に変わっていた。

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