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【まずは、デェトの誘いから】芦ノ原 ルネッサ
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎ 御 影 視 点 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
「御影 ……」
書類のかさばる雑多な書斎で、先生は私の名を呼んだ。夕日が強く差し込む部屋で、先生は窓際に立つと私の足元に長い影を作った。和装に身を包んだ彼はいつも難しそうな顔で腕組みをしている。
先生の優しい指が私の耳を愛おしそうに触れた。彼は目尻に皺を作って悲しく微笑む。
「……君は私を恨むだろう。どうか愚かな私を許してくれ」
その悲しげな瞳に手を伸ばそうとすると、先生は封印の呪文を口にした。途端に私の体は巻物に吸い込まれていった。
それから私は封印された中で長い夢を見ていた。
私は先生の優しい手によって目覚め、彼の手によって封印されるまで心穏やかに過ごす。何度も何度も先生との出会いを繰り返した。
瞼を開くと暗闇から巻物に手を伸ばす白い手が見えた。待ちに待ったその手に私は喉を鳴らした。また先生と私の物語が始まるのだ。
今度はどうやって先生を脅かしてやろうか。
封印が解かれた瞬間、私の体は解放されて、宙を舞った。琥珀色の艶やかな長髪が踊り、久しぶりの外の世界に軽く背を仰け反らした。そんな私の頭には妖狐の証である狐の耳がぴんと立っている。
そして、封印を解いた人物の頰にそっと手を添えた。久しぶりに感じる人肌に私は頰が緩んだ。
目の前に現れた化け狐に、先生は腰を抜かして驚くはずだ。
しかし、そこにいたのは腰を抜かした壮年の男ではなく、驚いた顔をした若い男が立っていた。
(……先生じゃない!)
私は周りを見回した。夢で見ていた整然とした書斎はなく、埃っぽい真っ暗な物置小屋の中だった。窓も締め切られており、開けっ放しの扉の日光だけが唯一の光だった。
「どうやら……これは夢ではないようですね……」
久しぶりに言葉を発したせいか、声がわずかに掠れた。湿っぽい匂いも手のひらに感じる人肌の温かさも紛れもない現実のようだ。
私は目の前の若い男に目をやった。
十代であろう少年は、端正な顔立ちで色素の薄いどこか儚げな印象だった。突然現れた妖狐を目にしても動揺せず、落ち着いた様子であった。私は少し悪戯心を出して、彼に微笑みかけた。
「これはこれは可愛い主人ですね」
呪われた妖狐である私は、封印を解いた者を主人として仕える役目があった。
しかし、こんなにも若い主人は初めてだ。
私は無表情で固まっている少年をからかうように笑った。
「ふふ、驚いて声も出ませんか? 私の名は……」
「御影 」
私の言葉を遮るようにして、少年は初めて口を開いた。
己の名前を言い当てられて、私は黙って彼を見た。彼は私の姿を眺めた後、淡々と話始めた。
「君のことは知っている。自己紹介の必要はない。
記録が正しければ、君が封印されてからちょうど八十五年になる。伊藤省三郎……君が『先生』と慕った男は身寄りがなく、彼の死後この屋敷は競売にかけられ、僕の先祖が買い取った。屋敷は取り壊され、中にあった家具や書籍はこの蔵に移動され放置されたまま忘れ去られていた。蔵を整理した僕が伊藤省三郎の日記を見つけ、君の存在を知った。そして、封印を解いた」
口を挟む暇もなく、彼は一方的に話し続ける姿を私はぼんやりと眺めた。言葉を失っている私を見て、彼は気まずそうに目を伏せた。
「君がここにいる経緯。気になるかと思って」
「よく分かりました。ありがとうございます」
礼を言ってみても、彼は表情を変えることなく小さく頷いただけだ。
「他に聞きたいことある?」
抑揚のない声と表情に私は戸惑った。こんなにも何を考えているかわからない人間は初めてだった。この少年が特別なのか、八十五年という月日とともに人類は感情を失ったのか。前者であることを願いながら私は少年に問うた。
「あなたは何者ですか?」
「僕の名前は環 史己 。高校二年生。そこの母屋に家族七人で住んでいる。三人兄弟の真ん中で、兄と妹がいる。誕生日は八月二一日。血液型はAB型。趣味は読書。特技は断捨離。得意科目は古文。友人は同じ文学部の後藤と吉川、それからクラスメイトの……」
「あの、もう大丈夫です」
「そう」
放っておけばいつまでも話し続けそうな少年……史己は、私が止めるとすぐに口を閉じた。そして別の質問をすることにした。
「なぜ私の封印を解いたんでしょうか」
「別に……。ただ、日記を読んで君に会いたくなっただけ」
「日記?」
「伊藤省三郎の日記。ここで見つけた」
先生の名を口にした瞬間、あれだけベラベラと話していた彼の口が突然重くなった。それ以上は何も言わず、突然話題を変えてきた。
「今度は僕から君に質問しても?」
差し込む光に埃が反射する。そんな中で史己の瞳が一瞬鋭くなった。
「封印されてる気分はどうだった?」
「長い夢を見ているような、そんな感じです」
「また封印されたい?」
「まさか」
冗談なのか本気なのかわからない質問だが、どこか言い回しに棘(とげ)を感じつつも、私は曖昧に笑った。
木製の床が軋む音に顔を上げると、史己がこちらに近づいて顔に向かって手を伸ばしていた。
「な……なにを?」
「耳を触りたい」
驚いて一歩引いたが、史己はそれでもやめようとせずに手を伸ばす。
「だ、駄目です!」
とっさに大声を上げると、史己はぴたりと手を止めた。
「耳や尻尾という部分は非常に敏感な部分で、他人に触られると不快なのです。人間で言うところの唇と同じと言うか……」
そこまで言うと納得したのか、伸ばしていた手が胸の前で揺れる髪に触れられた。
「髪は?」
「髪なら大丈夫です」
初対面の者にべたべたと触られること自体、不快なはずだが、なぜだか私は彼のペースに乗せられてしまっていた。
史己はその白い手で一束軽く掴むと、指を滑らせて弄んでいた。すると突然何を思ったのか、その手を握って髪を引っ張ったのだ。痛みに小さく眉を寄せる。
「……ッ、やめてください」
「ごめん」
無機質な謝罪とともに、彼は私の髪から手を離した。
そんな姿を見て、私は仕える妖狐を物のように扱う人間もいたということを思い出した。先生との思い出と夢があまりに幸せだったので忘れかけていた。呪いを解く人間が必ずしも良い人間とは限らないのだ。
それを肯定するように少年は感情のない瞳を私に向けた。
「君はさ、何ができるの?」
「……え?」
「ここにいる必要がないなら、また封印するから」
足元から冷ややかな何かがせり上がってくるのを感じながら、私は黙って新たな主人を見下ろした。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎ 史 己 視 点 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
話は数ヶ月前に遡る。
僕……環 史己は、早朝から黙々と蔵の中を整理しながら、物思いにふけっていた。
先日、曽祖母が亡くなった。
彼女は九十歳を超え、大往生を遂げたが、それでも共に住んでいた家族は悲しみに暮れた。そんな中、僕だけは泣かなかった。
親戚からは「あんなに可愛がられたのに泣かないなんて薄情だ」と責められた。悲しいに決まっている。泣いても現実が変わらないから泣かないだけで、もしも泣いたら曽祖母が生き返るなら、僕は天地を揺さぶるほどの大声で泣いただろう。
しかし、周りは涙を悲しみの証拠だと言わんばかりに求めてくる。
曽祖母は最期、「化け狐が蔵にいるから、処分してくれ」と随分とこの蔵を気にしていた。
しかし、彼女が逝った後、その化け狐を探しに蔵を整理しているのは僕だけだ。
親戚や家族の者は呆けた老人の戯言だと相手にしなかったし、葬式で散々泣いていた妹だって友達との約束があると言ってすっぽかした。僕からすれば、曽祖母の言葉を顧みない彼らの方がよっぽど薄情に思える。
「昔、化け狐に取り憑かれた男が、気が触れた末に死んでのう。その化け狐は今もあの蔵に残されたままじゃ」
随分と物騒な話だと思ったが、曽祖母は大真面目な顔で僕に話した。
おそらく化け狐といっても、呪われた人形の類だろう。見つけ出してお祓いをすれば、天国の曽祖母も少しは安心するだろう。
僕は、埃まみれになりながら蔵の中を探索した。
しかし、どれだけ探してもそれらしい物は見つからなかった。
どうすべきかと大きなため息をついて、歩こうとした時、積み重なった本の山に足がぶつかった。紐でまとめられていなかった本たちは、好き好きにページを開きながら床の上に散らばった。
(やってしまった)
余計な仕事を増やしてしまった自分を恨みながら、ひとつひとつ本を拾い上げていく。その中に、手書きで書かれた本があった。麻紐でまとめられた手作りの本だった。
思わず手を止めてしまったのは、その本が珍しかったからではなく、その中に描かれた絵が気になったからだ。
そこには、狐の耳の生えた人間が筆で描かれていた。
(化け狐……)
まさかこれが曽祖母の言っていた化け狐なのだろうか。
しかし、その絵は僕が想像していた妖怪とは異なっていた。筆で描かれたそれは、和装で長い髪を揺らし、妖艶に微笑んでいる。妖怪というよりにはあまりにも美しかった。
女かと思ったが、体つきから男だろう。美男子に狐の耳が生えている。
これは妖怪じゃない。
「ケ……ケモ耳だ」
意外かもしれないが、僕は獣耳にめちゃくちゃ弱い。もともと動物が好きだったのもあるが、人間に動物の耳を生やしただけで、どうしてこんなに愛おしく感じてしまうのか自分でも不思議だ。
最近ではドラ●もんに耳が生えただけでも、動悸がしてしまうぐらいだ。
僕は少し興奮気味にその本に目を走らせた。
「……御影?」
その絵に添えられていた名をぽつりと読んだ。
それが僕が初めて御影を知ったきっかけだった。
化け狐が御影だとわかった僕は、その絵が描かれた本を持ち去った。
それは、とある孤独な作家の日記だった。妻を亡くしたその男は、平穏といえば聞こえがいいが、砂も砂糖も区別がつかないような無機質な日々を送っていた。しかし、ひょんなことから巻物に封印されいた化け狐……御影との出会いから生活が一変する。
男は御影に心を奪われ、亡くなるその日まで、日記は御影のことで埋め尽くされていた。
作家という職業柄もあるのか、御影との何気ない会話がまるで宝物ように、愛おしく感じているのが、文字を通して伝わってきた。
日記を読む限り、御影と作家の関係はあくまで主従関係に過ぎなかったようだが、作家が御影に対して特別な感情を抱いていたのは明白だった。
時折、落書きのように描かれる御影の似顔絵を見ると胸を掴まれるような妙な気持ちになった。
その気持ちがなんなのかわからぬまま、日にちが経つごとに御影への思いが募っていった。
曽祖母に言わせれば、狐に憑かれた状態だろう。彼女が知ったらきっと怒るに違いない。
御影の封印を解く方法も、永遠に葬る方法も知ったが、どちらも実行できないまま、何度も日記を読み返した。
そしてある夜、ついに御影は僕の夢に出てきた。
背後から、御影は細い指を伸ばして僕の目を塞いだ。僕は振り返ってその姿を捉えようとするが、見えるのは彼の着物の袖ばかりで、そんな僕をあざ笑うようにまた後ろから目隠しされた。
僕はその細い手首を掴むと、もう逃すまいと御影を押し倒した。そして、その唇に己の唇を押し付けた。その柔らかな唇を吸うと、御影も柔らかく僕の背に手を回して、受け入れてくれる。彼の金色色のふさふさの耳に手を伸ばして指で撫でると、くすぐったそうな声が聞こえた。その感触を楽しみながら、もう一度口づけをしようとしたその時――目が覚めた。
下着が濡れる感触が広がっていくのを感じながら、深いため息をついた。
暗闇の中、手探りでティッシュ箱を探しながら、これはもう会うしかない……と、決心したのだ。
そして、翌日。学校から帰ってくると蔵に直行した。母屋に着替えに帰るのも億劫で、吸い込まれるように蔵の奥へと進んで行った。
本棚の奥に隠されたように置かれた巻物。
御影が封印されていた巻物だ。僕はそれを手に取ると頑丈に貼り付けられていた札を取り、紐を解いた。
手元からまばゆい光が放たれたかと思うと、頭上に狐の耳を生やした美青年が僕を見下ろしていた。
鮮やかな花緑青の瞳と目が合うと、彼は微笑を浮かべ、僕はそれだけで昇天しそうになった。
(天使だ……)
想像していた姿の百倍可愛い。
「これはこれは可愛い主人ですね」
御影が喋った。思っていたよりも低い声。
彼が目の前で動いて、僕と話しているのが信じられない。
「ふふ、驚いて声も出ませんか?」
その通りだ。こう見えて、僕は大パニックに陥っている。走ってもないのに心臓が爆発しそうなぐらいドキドキして何も考えられない。
「私の名は……」
「御影」
御影。御影。御影。
何度も心の中で反芻した名をようやく口に出すことができた。
「君のことは知っている。自己紹介の必要はない」
僕は御影の前の主人の説明をした。聞かれてもないのに。僕の口から滝のように言葉が溢れて止まらない。
きょとんとする御影に僕は恥ずかしくなって目を伏せた。
「……君がここにいる経緯。気になるかと思って」
「よく分かりました。ありがとうございます」
言い訳がましい僕の言葉にも、にっこりと笑う御影。可愛い。
「他に聞きたいことある?」
調子に乗って、ついそんなことを口走ってしまう。
御影が望むなら、知識を求めて片道一時間半の県立図書館に走っていくことだって厭わない。しかし、御影の質問は意外なものだった。
「あなたは何者ですか?」
僕? 御影が僕に興味を持った?
予想外の質問に僕は、混乱しながら頭に思い浮かんだものをとにかく口にした。
「僕の名前は環 史己 。高校二年生。そこの母屋に家族七人で住んでいる。三人兄弟の真ん中で、兄と妹がいる。誕生日は八月二一日。血液型はAB型。趣味は読書。特技は断捨離。得意科目は古文。友人は同じ文学部の後藤と吉川、それからクラスメイトの……」
「あの、もう大丈夫です」
御影に途中で止められて、ほっとしながら言葉を止める。御影はさらに質問を重ねた。
「なぜ私の封印を解いたんでしょうか」
「別に……。ただ、日記を読んで君に会いたくなっただけ」
「日記?」
「伊藤省三郎の日記。ここで見つけた」
伊藤については、できればあまり言いたくなかった。
御影は主人である伊藤をとても慕っていた。
その証拠に彼の名を口にした途端、御影はぴくりと反応した。
彼のことを教えるのは、なんだか自分にとって不利になるような気がして、僕は話題を変えた。
「今度は僕から君に質問しても?」
「はい」
嫌な顔一つせずに頷く従順な御影。
資料によると妖狐は封印を解いた人間を主人にして仕えるらしい。素直な態度は彼の性格なのか、それとも主従関係に基づくものなのか。どちらにしても、頭に超がつくほど可愛いことに変わりはない。
「封印されてる気分はどうだった?」
「長い夢を見ているような、そんな感じです」
御影はどこか幸せそうに微笑む。なんの夢を見ていたのか聞かなくてもわかる。きっと『先生』の夢だろう。
そんな顔をされると邪魔をしてしまったのかと不安になる。
「また封印されたい?」
「まさか」
否定されて安堵した。もっと夢の中にいたかったなんて言われたら、それこそ僕は泣くほど悲しい。
伊藤の日記を読んだ時から薄々気づいてはいたが、僕はどうやら御影に恋をしている。
不整脈かと疑うような動悸もきっと恋愛感情のせいだろう。他人にそんな感情を抱いている自分に我ながら驚いた。
僕は全身全霊で彼の変化を感じ取ろうと必死になっている。他人にこんなに注意を払うのは初めてだった。
笑いながらもどこか緊張しているような御影。
彼に触れたい。率直にそう思った。
僕は衝動に任せたまま、かかとを上げると、御影の頭に乗っている柔らかそうな耳に向かって、手を伸ばした。
夢と同じようにくすぐったい声を出すだろうか。
「な……なにを?」
「耳を触りたい」
戸惑う御影にそう告げて、さらに手を伸ばした。
従順な彼なら許してくれるような気がしていた。
しかし、返ってきたのは強い否定だった。
「だ、駄目です! 耳や尻尾という部分は非常に敏感な部分で、他人に触られると不快なのです。人間で言うところの唇と同じと言うか……」
……怒らせてしまった。
御影に怒られたことが、とてもつもなくショックだった。
僕は耳に触れるのを諦めて、目の前の艶のある髪を見つめた。
「髪は?」
「髪なら大丈夫です」
許可をもらって髪に触れようとしたが、力加減を間違えてつい引っ張ってしまった。
「……ッ、やめてください」
「ごめん」
テンパった僕は、漠然とした質問を彼に投げつけた。
「君はさ、何ができるの?」
トイレやお風呂、食事はどうしているのか。何が必要で、僕に助けてほしいことはあるのか。
しかし言葉足らずの質問を投げかけられた御影は困っている。
今日という日のために、たくさんシミュレーションしてきた。御影と会ったら、聞いてみたい質問は山のようにあったし、落語を聞いて笑える小話もいくつか用意した。
しかし、いざ会うとなにひとつ役に立たず、聞かれてもないことをベラベラと話し、髪を引っ張って怒らせてしまっただけだ。
嫌われたかもしれない。
新しい主人がこんなやつでがっかりしたかもしれない。
……こんなことなら、封印されて夢を見ていた方がマシだったと思ったかもしれない。
「ここにいる必要がないなら、また封印するから」
否定をしてほしくてそんなことを言って、御影を見上げたが、彼は何も言わなかった。
説明不足の言葉ばかりでうんざりされたかもしれない。だけど、何をどう言えばそれが伝わるのかわからない。
僕はこの日ほど、自分の無能さを悔やんだ日はなかった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎ 御 影 視 点 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
「ここにいる必要がないなら、また封印するから」
新しい主人は抑揚のない声でそう言った。まるで、虫けらに向かって言うみたいに冷たい目で。
蔵を出た私たちは、そのまま母屋である屋敷に通された。そこには彼と彼の家族が住んでいた。妖狐である私の姿が見えるのは主人である史己だけだ。ちらりと彼の妹らしき女性が見えたが、普通に声をあげて笑っていたので、どうやら人類に感情は奪われていなかったようで安堵した。
彼の屋敷はどこか先生の屋敷と似ていた。廊下の板間と和室が並んだ大きな平屋。家族が多いが、部屋数も多く、史己は自分の部屋があるようだった。
机と本棚のある和室。天井まである本棚が二つも並んでいて、彼が読書家であることが窺えた。
「お腹空いた?」
史己は押入れから座布団を取り出しながら、私にそう聞いてきた。答えない私に彼はさらに付け加えた。
「何か食べる? 冷蔵庫から何か取ってくるけど」
「いえ……。私は食べ物は食べません」
「そう」
花柄の座布団を私の足元に置いてくれる。どうやらここに座れということらしい。私がそこに正座すると、彼は机の前の椅子に腰掛けた。
しかし何を話すわけでもなく、沈黙が流れるだけだった。
脅されてこき使われるのかと思っていただけに少し拍子抜けではある。
(存在意義は自分で見出せということでしょうか)
また封印されては困るので、私は『彼に仕える必要性』を示さねばならなかった。私は意を決して彼に声をかける。
「史己さん」
「史己でいい」
口を開いた途端、食い気味で修正される。素直に呼び捨てで彼の名を呼び直した。
「史己、私、芸が出来ます」
先生と一緒にいたころ、女中さんが趣味で一人で踊っていた日本舞踊を見よう見まね踊った。先生には好評だったけれど、先生以外の前で踊るのは初めてだった。
鼻歌を歌いながら、懐から扇子を取り出すと、それを広げて舞った。初めは緊張したが、久しぶりに体を動かすとなんだか楽しくなってくる。
史己は無表情で私を眺めていたが、踊り終わると拍手をしてくれた。
「どうですか?」
「すごいね」
渾身の踊りを一言で片付けられて、私はぐっと言葉を詰まらせた。これでは楽しんでくれているのかどうかわからない。
「あの、楽しいですか?」
「楽しいよ」
(だったら、ちょっとは笑ってくださいよ~っ!)
心の中で叫びながら、顔は笑顔を崩さない。とりあえず彼は楽しいと言ったのだから、言葉通りに受け取っておく。これで、私の存在意義を感じてくれたのなら一安心である。
「史己が望めばいつだって踊ってあげますよ」
「別にそんなことしなくていい」
無下に断られて、私は衝撃を受けた。
(『そんなこと』っ!? 踊りは興味なかったんでしょうか……)
「あ、あと、家事も出来ます!」
こんなことでお役御免となるわけにはいかず、私はすぐに彼の役に立ちそうな提案を口にした。
実は私は家事は苦手である。先生の部屋を片付けようとして、書類の山を倒し、足の踏み場もないほどの雪崩を起こしたことがある。以来、掃除は禁止されたという歴史があるが、この際そうも言ってられない。
「史己の部屋だって、とっても綺麗にできますよ」
焦った私はついつい大げさに嘘を重ねてしまう。しかし、史己は首を縦には振らなかった。
「必要ない。家事は母が主体でやってくれるし、僕は自分の部屋のものは全て自分で把握しておきたい。だから、片付けなくていい」
彼の言う通り、この部屋は綺麗に整頓されている。
(うっ……。私の出る幕が全くない)
「お……お肩を揉みましょうか」
そんな子供みたいなことを言い出す始末。
即答で断られるかと思ったが、彼は黙って椅子から降りると、私に背を向けて座った。
意外に感じながら、その肩を揉む。細い肩に指を食い込ませるが、これといって手応えもない。
「やっぱり若いとあまり凝ってませんね」
耳元で囁くと史己はピクリと反応した。
「う……」
(あれ?)
「もういい。ありがとう」
史己は突然立ち上がると、足早に部屋から去った。後を追いかけようとしたが、便所にこもってしまった。
見間違いでなければ、彼の耳は赤くなっていたような……。
さすがの私もそんな姿を見せられてしまっては、勘付かないわけにはいかない。
(も……もしかして、史己が私に求めてるコトって……)
指で顎を掴むと私は小さく唸った。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎ 史 己 視 点 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
日記に書いてあった通り、御影は他の人には見えないようだった。
僕にだけに見える背後霊のようなものだろう。
背後霊を背負っているからといって、囲碁でプロ棋士を目指すわけでもなければ、殺人ノートで新世界を創るわけでもない。僕は今までもこれからも普通の高校生でいくつもりだ。
強いて人と違うといえば、その背後霊の貞操を奪いたいと目論んでいることぐらいだ。
しかし、そんな野望を抱いていることが本人にバレてしまったら、ドン引きされるにきまっている。
さっきも初対面の会話から散々だった。てっきり御影に嫌われてしまったかと思ったが、そうではなかったようだ。
その証拠に踊りを見せてくれたり、家事をやると言い出したりしてくれた。
彼の踊りは美しかったし、いつまでも見ていていたいと思ったが、別に僕はサーカスの珍獣が欲しかったわけではない。だから、いつでも踊るという彼の申し出を断った。すると今度は家事をしたいと言われたが、女中が欲しかったわけでもないので、それも断った。
すると、なんと肩を揉むと言ってきたのだ。あまり断るのも悪いと思って、承諾した。決して、決して御影に触れてもらえるからという下心があったわけではない。
あったわけではないが、凝っていない肩を揉まれるとなんだかくすぐったく感じたし、御影の長い影が首に当たってやっぱりくすぐったかったし、なんだかお香のいい匂いがした。そこに加えて耳元で囁いてきたのだ。
そんなことをされたら、逃げ出すしかない。
そして僕は今、トイレに籠城している。
(肩を揉まれて、危うく勃つところだった……)
便座に腰掛け、顔を覆った。己の体の愚かさにため息が出る。
こんなことがバレたら変態扱いされた上、巻物に戻してくれと懇願されるに決まっている。
それだけは何としても避けたかった。
祖父が「早く出てこい」とトイレの扉を叩く。どうやら時間切れのようだ。形式的に水を流して、トイレを出ると御影の待つ自室には戻らず、居間に向かった。そして台所で夕飯を作る母親を手伝う。
作戦としては単純だ。僕の考えがバレないよう、なるだけ御影との接触を減らす。
母には熱でもあるのかと不審がられたが、まあいい。ちょうど親孝行にもなるし一石二鳥だ。
そのまま夕食まで家事を手伝い、祖母の長話に相槌を打ち、妹の勉強を教えてやった。その日の僕はいい孫であり、いい兄だったに違いない。
自室に残した御影を無視しているようで心苦しかったが、背に腹は変えられない。
悪いのは僕ではなく、可愛すぎる御影が悪いのだ。
そうして、なんとか就寝まで自室に戻らず過ごすことに成功した。明日になれば、朝から学校があるから、あまり御影を意識せずに済むだろう。
自室の襖を開くと、御影は僕が用意した座布団に行儀よく座っていた。その佇まいを見ただけでドキッとしてしまった己を必死に律する。
押入れから二人分の布団を準備する。白い敷布団を二枚並べたが、狭い僕の部屋では二枚の布団がぴったりとくっついてしまう。それを見ただけでも、なんだか僕は照れ臭い気分になってしまう。
(もう少し離した方が……、いやでもこれ以上は……)
布団相手に奮闘していると、背後で御影が囁いた。
「史己……」
耳元でエロい声で囁くのはゾクゾクするのでやめてほしい。
しかし、そんなことを言えるわけもなく普通に振り返った。
「なに?」
「私は眠らないので布団の必要はないですよ」
「……そう」
畜生。
叫びたくなるぐらい残念に思いながら、僕は布団を一組片付けた。
就寝の準備を済ませ、電気を消すと御影は呟いた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
僕が眠る間、彼はどうしているんだろうと疑問に思いながら、瞼を閉じた。
「史己……史己……」
夜も更けた頃、誰かが僕を呼ぶ声で目が覚めた。
薄眼を開くと御影が僕の上に跨って見下ろしている。暗闇の中、緑の瞳が僕を見つめていた。
(夢……?)
いや、しかし夢にしては妙にリアルなような……。
寝ぼける僕の頰を冷たい手が触れる。
「史己、私に何かしてほしいことはありますか?」
「ん……、服脱いで」
寝ぼけた頭ではつい本音が口から漏れる。御影は首元の襟を緩めると白い胸元をあらわにさせた。
(夢じゃない)
眠気が一気に吹き飛び、僕は生唾を飲んだ。御影は妖艶に微笑む。
「服を脱ぐだけでいいんですか?」
「駄目」
僕は上体を起こすと、彼の肩を掴んで布団に押し倒した。御影の顔を見ながら、着崩れた着物の襟から手を入れた。
「気持ちよくなってる顔も見せて」
その瞬間、御影の瞳がカッと見開かれたかと思うと彼の顔が黄色い毛に包まれみるみるうちに狐の姿に変化した。
鋭い牙で噛みつかれそうになり、とっさに避けるとそのまま宙に浮かんだ。そして僕の頭上で再び人の形に戻った。
御影の顔は怒りで満ちていた。
「やっぱり私をそういう目で見ていたんですね! 折を見て、私を慰み者にする気だったんでしょう!」
「ち……違う……、御影」
「いいえ、違いません。じゃあ、これはなんですか?」
御影は服の上から僕の股間を強く掴んだ。
「これはチンコです」
圧迫感に息を詰まらせながら質問に答えると、御影は顔を真っ赤にしてますます怒り出した。
「そ、そういう事を聞いているのではありませんっ! 硬くしてるじゃないですか!」
御影、君が相手をしているのは、十七歳の童貞だ。意中の相手に迫られば勃起ぐらいして当然だ。と言い返してやりたかったが、興奮している彼にそれを言う勇気はなかった。
「私は貴方の奴隷になるつもりはありません。私の存在意義が性欲の発散だというのなら、お断りします」
「御影、何の話?」
彼がなぜ怒っているのかわからなかった。しかし彼は僕の質問には答えない。
「でももし、貴方に情けというものがあるのなら、私を封印する前に連れて行ってほしい場所があるのです」
情け? 封印?
御影が一体、何の話をしているのかわからなかったが、どうやらどこか行きたいところがあるようだ。
「それって、僕とデートしたいってこと……?」
「『デェト』とは?」
慣れないカタカナ語を言いづらそうに口にする御影。
「逢引だよ」
意味を教えると、御影は少し遅れてまた赤くなった。
「逢……っ! もう、馬鹿!」
御影は限界だと言わんばかりに叫ぶと、再び狐に姿を変え、僕の前から去ってしまった。
残された僕はぼんやりと天井を見上げ、よくわからないがまた彼を怒らせてしまったという事実に気づいて、泣きそうになった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎ 御 影 視 点 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
結局、私は朝まで史己の部屋には戻らず、狐の姿で屋根の上で夜を明かした。まだまだ子供のような風貌の彼が、まさか腹の底で私をいやらしい目で見ていたなんて。考えるだけで怒りがふつふつと湧き上がる。
それでも一応封印されるまでは主人なので、学校に行く彼を見送りに顔だけ出したが、不機嫌な顔までは改める気はなかった。
史己は相変わらず何を考えているのかわからない無表情だったが、見送りに対しては礼を言って出ていった。昨日の出来事がなければ、こういうやり取りも悪くない。
私は怒りながらも、久しぶりに誰かを見送るという行為に満足していた。
(でも、私を欲望のはけ口にしようとしたことは許されることではありません!)
自分に言い聞かせるように思い直すと、庭が見える縁側で彼の帰りを待った。物干し竿に干された洗濯物が風で揺れている。静かな時間が過ぎていくのを私はただ眺めていた。
日が西に傾き始めた頃、史己は汗だくになって帰ってきた。どうやら、走ってきたらしい。縁側に座る私を見つけると、玄関に入らずまっすぐ庭に入ってきた。
「どこに連れていって欲しいの?」
ただいまよりも先に彼はそう言った。昨日、私が行きたい場所があると言ったのを覚えていたようだ。意外にも彼は約束を律儀に守る性格らしい。
私が黙っていると、彼はどこか拗ねたように付け加えた。
「君がどこに行きたいか、言わなくても予想はつくけど」
史己は約束通り、私の行きたい場所に連れていってくれた。彼は歩いて片道一時間かかる山道を嫌な顔ひとつせず、私の前を歩いた。
足元の悪い場所を「危ないから」と私の手を引いた。本気で逢引のつもりなんだろうか。そんなことをしなくても、狐の私は人間のように転ぶことなんてない。しかし、あまりに一生懸命先導を切るので、私はその手を掴んでそこまでたどり着いた。
裏山の登山道から少し外れた拓けた丘に、いくつかの古い墓が建てられていた。その中のひとつに、先生の墓があった。
「お久しぶりです。先生」
私は挨拶をして、その冷たい墓石に手を添えた。そして来る途中で摘んだ花を供える。
そんな私の姿を後ろで見ていた史己が不思議そうに口を開いた。
「君は封印されるのは嫌だと言っていたよね」
「はい」
「伊藤は自分の死期を悟ると、君を身勝手に封印した。自分が死んだ後、他の誰かに君を奪われないために」
史己は先生の日記を読んだと言っていた。なぜ彼が今、その説明をしてくれるのかわからないが、私を封印した理由は実に先生らしいと感じた。
私は目の前の墓に向かって微笑んだ。そんな私を史己は不思議そうに見る。
「君は彼を恨んでないの?」
「……恨んでません。彼にはたくさんのことを教えてもらいましたから」
「御影は僕といるより、『先生』の話をしている時の方が楽しそうだね。封印した方が君にとって幸せなんだろうね」
史己はそんなことを言ってまた私を脅す。これさえなければ、私と彼はいい関係を築けたかもしれないのに。
「そうかもしれません」
わざと自嘲気味に肯定した。墓の前にうずくまったまま、顔を上げずに、私の後ろに立っている彼に声をかけた。
「ここに連れてきてくれてありがとうございました。これで思い残すことはありません」
墓石に掘られた文字を指先でなぞった。手入れされていないその墓は随分と汚れている。私もこの忘れ去られた墓のように静かに眠るのだろう。
そうだとしても、ことあるごとに封印すると脅す主人に仕うよりは良い。私は懐から巻物を取り出すと肩越しに彼に差し出した。
「もう私は貴方に媚びません。言うこともききません。きっと貴方の何の役にも立たないでしょう。封印でも何でも、好きになさって構いませんよ」
そこまで言うと、私は覚悟を決めて瞼を閉じた。
史己は私に近づき、巻物を手に取った。しかし、封印の言葉は唱えられず、それはそっと先生の墓の前に置かれた。そして次の瞬間、耳をくすぐられたような感触がした
「……ッ」
なにか湿った感触を感じて私は息を詰まらせた。彼が耳に顔を寄せて口付けたのだと気づき、驚いて立ち上がった。
「な……なにを……?」
「今、君が好きにしていいと言ったから」
「まだそんなことを……」
呆れて言葉を失っていると、彼は私の目をまっすぐと見て口を開いた。
「御影、昨日のことを怒っているなら謝るよ。会ったばかりの男に欲情されたら気持ち悪かったと思う。……ごめん」
表情も口調も普段と何も変わらないのに、なぜかその姿は悲しげに耳を垂らした犬のように見えた。
「次からは、どんな時もなるだけ勃たせないように頑張る」
(この子は一体、何の話をしてるんでしょう……?)
「だから……、封印してもいいなんて言わないで」
「封印したいと言ったのは貴方でしょう?」
もしや、彼は私がなぜ怒っているのか理解していないんじゃないか? その疑いは、彼がすがるように私の服を掴み、紡いだ言葉で確信に変わった。
「僕は……、ただ、否定してほしくて……」
史己の頰に一筋の涙が落ちた。顔を歪ませる訳でもなく、まるでたまたま頰に雨が落ちてきたかのような不思議な泣き方だった。
「史己、泣いているの?」
「涙を流しても無意味だと分かっている。でも、君がいなくなると思うと……辛くて」
「昨日会ったばかりじゃないですか」
そう言うと彼は首を横に振った。
「違う。僕は前から君を知っていた。ずっと前から……君に恋をしていた」
そんな言葉を恥ずかしげもなく、はっきりと私に告げる。瞬きする度に涙を流す彼がとても綺麗に見えた。
「蔵で伊藤省三郎の日記を見つけた時から……」
「では、なぜ貴方は役に立たないなら封印すると私を脅したんですか?」
「僕が……? 君を……? いつ?」
史己がわずかに眉を寄せた。今日一番の表情の変化だ。まるで覚えがないという様子に今度は私も驚いた。
「もしかして、自覚なかったんですか?」
私は出会った時の会話を思い出して腕を組んだ。
「貴方は髪は引っ張るし、何ができるのかって威圧的だし、おまけに役に立たないなら封印するなんて脅すから、随分と悪い人だと思いました」
それを聞いた史己はしばらく黙ってうなだれた。
「そんな風に伝わっていると思わなかった。僕はてっきり、うまく話せないから、君に……君に嫌われたかと……」
そこまで言うと、彼は突然眉間にしわを寄せて拳を瞼に押しやった。そして嗚咽を漏らして泣き始めた。
「嫌われるのがこんなに怖いと思ったのは初めてだ……」
「史己……」
肩を揺らして泣く彼が初めて年相応の少年に見えた。許せないと思ったはずの男なのに、私は気づくと彼を抱きしめていた。
彼はしっかりと私の背に手を回すと胸の中に顔を埋めた。
「不安な思いをさせて、ごめん……」
素直に謝られると、私は小さく笑ってその髪を撫でた。まさかそんな勘違いをしていたなんて。
口下手というには度合いを超えているが、私のために食事や寝床を提供しようとしてくれたりしていたところを見ると、彼は本当は心優しい人間なのかもしれない。
「史己、私に伝えたいことがあるなら、今改めて聞きますよ」
もう一度彼と言う人間を知ろう。
そう思って、私は胸の中の少年に問いかけた。すると彼は胸に顔を埋めたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「初めて会った時、予想の百倍ぐらい綺麗だと思った」
「はい」
「君が踊ってくれた時、本当は一生見ていたいって思ってた」
「はい」
「会う前から君で抜いてた」
「それは言わなくてもいいです」
ぴしゃりと言うと、史己は不安そうに私の顔色を窺ってくる。
あまりの馬鹿正直さに呆れてしまうが、どうやら悪気はないようだ。
「史己、貴方は私に何ができるかと聞きましたね」
「それは君が食事とかトイレとか出来るのかとか……」
弁解を始めた彼の口元に人差し指を添えて黙らせた。そして目尻に残る涙を指で拭ってやる。
「貴方に教えてあげますよ」
初恋をしたばかりの無垢な彼に私は口角を上げて微笑んだ。
「まずは、デェトの誘いから」
「……うん、よろしく」
その意味が分かると史己もわずかに頰を赤らめて頷いた。そしてその瞳が嬉しそうに細められた。初めて見た彼の笑顔に胸が高鳴ってしまった。
その隙を彼は見逃さず、背伸びをして顔を近づけてくる。
「史己、口づけはまだ早いですよ」
私が言うと史己は残念そうに背伸びした足を戻した。一瞬でも心を許した自分が恥ずかしい。
「今、デェトからだと言ったばかりじゃないですか」
油断も隙もない彼を諭す。まるで反省していないようだが、これからじっくりと教えていくしかない。
それから私たちはしばらく話をした。どれも他愛のないことばかりだったが、史己が極端に無愛想なだけで実は心優しい男だと知るには十分だった。
暗くならないうちに、私たちは山を降りることにした。
ふと視線が気になって振り返ると、巻物を供えられた先生の墓が私たちを見守るように佇んでいた。
完
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