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【言い成り】深森きのこ

――なんでこんなことになったんだ。  目の前には一匹の……これは、狐?  本物の狐は見たことがないが、蓄積されたテレビや本の情報から構成される狐の映像。それとほぼかぶっている。間違いなさそうだ。思ったより毛が長い。色、こんな濃かったっけ。白って思ってたけど、割と普通に黄色というか茶色というか。艶があって、綺麗だ。開いた口からちらりと見える牙は、どう見ても肉食獣のそれだ。 ――なんでこんなことになったんだっけ?  頭に浮かんだ疑問がリフレインする。  学校で、家系図を書いてこいという宿題が出た。うちは古い家柄で先祖もかなり遡れる。親に聞いたら、蔵にある巻物を見てみろと言われたから、庭に出て……そうだ、蔵で巻物を探してたらたくさんありすぎてどれか分からず、手近なものからいくつか広げてみたんだった……。 「少年、封印を解け」 「……はっ?」  諒一はあたりをきょろきょろ見まわした。狐が口を利くなどとは思わない。そもそも、この狐は本物なのかという疑問もある。 「馬鹿者。私だ」 「え?」 「封印を解ける者がいるとは思わなかった。さあ、その手の巻物を完全に開け。私を自由にしろ」  現実が受け入れられない。何を言えばいいのか分からない。けれど「封印を解く」という言葉には、どうにも良くないものが付きまとう気がする。諒一はためらった。 「でも、取り返しのつかないことになるんじゃ」 「いいから早く」 「いや、良くないよ……多分」  諒一が拒むと、狐は目をきつくして目の前の若い男を睨んだ。 「いいか、私はこのままでも今すぐにお前を殺すことができる」  喉の奥から低く唸り声を上げ、明らかに脅している。やや冷静さを取り戻した諒一は、冷たい目線を送り、おもむろに手の中の巻物をくるくると戻し始めた。 「待て」 「僕が封印を解くことにメリットはなさそうだし。これを巻いたら、お前はまた封印されるってことなんだな」 「待て待て待て」  前のめりになって動作を押しとどめようとする仕草は、どこか可愛くも思える。諒一を殺してしまえば、封印を解いてもらえない。それは狐にとって、次の誰かを待つまでまた長い時間がかかることを意味していた。巻物を開けば誰でも封印が解けるというものでもない。今までも多くの人間の手によって巻物が開かれたが、狐は外に出たことがなかった。それが今回は巻物が開いた途端、狐の姿が具現化した。これは千載一遇のチャンスなのだ。 「メリット、というのは利点ということだな。お前の得になることがあれば封印を解いてくれるか」  態度を一変させて下手に出る狐に、諒一はくすりとした。だがその頬笑みは溶けるように消えてしまう。狐は怪訝そうな顔で首をかしげた。 「よし、お前の願いをなんでも叶えてやろう。何がほしい」  狐の提案にも、諒一は無言で応えた。視線が地面に落ちる。 「……何も。欲しいものなんか、何もないよ」  言いながら、諒一は小さく微笑む。 「良く考えたらさ、別に殺されたっていいんだ。僕は」 「珍しい人間もいるものだ。私の知っている人間は生への執着がすごかったが」 「そう? 最近は多いよ、死にたい人間。この国だけでも、年間三万人くらい自殺してるらしいから」  狐は驚きで目を見張った。 「たかが千年かそこら寝ていた間に、世の中も変わったものだな」 「僕もその大勢の中の一人ってわけさ」  伏せたまつ毛が揺れる。狐は再び首をかしげた。 「死にたい理由はなんだ。この家だ、生活に困っているわけじゃなかろう。何の悩みがある?」  諒一は、はっ、と馬鹿にしたように短い息を吐いた。狐の知る人間は、衣食住が揃っていればそれでいいというのだろうか。あまりにも浅い。人間はそんなに単純じゃない。狐はそんな諒一の心中はとんと見当がつかないといった様子でじろじろと観察を始めた。 「色白だな。不健康か。しかし病気というほどではなかろう。頭も悪くなさそうだ。それに、見た目も十分に美しい」  最後の言葉を聞いて、諒一はついに深くため息をついた。 「そんなんじゃないよ」 「そうか、権力だな?」 「違う」  くだらないといった調子で吐き捨てる。諒一の家は名家で、地位も名誉も権力もある。強いて言えばそれは両親のものであって諒一のものではないが、多くの使用人がいるような家で育った諒一にとって、権力など別に欲しいとも思わないものだった。 「欲しいものはないと先ほど言ったな。それは本当に何も欲しくないのか。それとも欲しいものは手に入らないという意味か?」  初めて諒一の顔色が変わった。それはほんのかすかなものだったが、頬に赤味がさし、目がゆらりと動いたのを狐は見逃さなかった。 「分かったぞ。金や権力でないなら、女だな」 「……」  否定の言葉は出なかった。酷い失恋のあと、もうずっと、生きる気力がわかないまま、それでも周りに迷惑をかけるわけにいかないという理由だけで、ただ生きている。口をつぐんだ諒一に狐は満足げにうなずいた。 「その女がどんなだったか詳細に話せ。化けるのは狐の真骨頂。私の腕の見せどころだ」 「やめろ!」  急に大声を出した自分に、諒一自身も驚いた。狐はその勢いに思わず体を後ろに引き、片方の前足を軽く上げたまま固まっている。 「……そんなこと、意味ない。あの人は、あの人だから。お前がどんなに上手に化けるとしたって、お前はあの人にはなれない」  そう言われてしまうと、狐も二の句が継げなかった。けれど、封印を解いてもらうチャンスを逃したくはない。 「恋を忘れるのに、一番の方法を知っているか」  狐の改まった姿勢と声音に、諒一もつられて居住まいを正した。忘れられるものなら忘れたい。好きだった気持ちも、失った辛さも、全部。手の中の巻物を、きゅっと握る。 「それは、新しい恋だ」  想像以上に陳腐な言葉が発せられて、諒一は脱力した。そんな、くだらない女性誌の煽り文句のようなセリフで心を動かせるとでも思ったのだろうか。嘆息して、巻物を元に戻そうとする。 「あー、待て待て」  慌てた狐が片手を諒一の手に重ねた。ごわついた野生の毛と、柔らかな肉球が触れる。実体があるのだ。それは思った以上に諒一を驚かせ、狐の存在を強く感じさせた。けれど諒一は平静を装い、そっぽを向いた。 「その気はないよ」 「試してから言え」 「大体、そんなすぐに相手が見つかるわけないだろ」 「私はどうだ」 「はぁ? 狐だろ、動物相手に」 「封印を解くんだ。そうすれば人型になれる。私は美しいぞ」 「嫌だよ。だって、何をしでかすか分かったもんじゃない。悪さをしたから封印されたんだろ」 「……それには、深い理由がある」  ふと、狐の瞳が曇った。 「お前にも色々あったように、私にだって過去がある。お前の想像をはるかに超えた長い時間、私は生きてきたのだ。その歴史を語れば夜が明ける。……今の私が人間に害を及ぼすわけじゃない。その証拠に、私はお前も、この近くにいる人間にも害をなしていないだろう。やろうと思えばここにいたままで、そこらにいる人間の命を奪うことだって可能なのだ。だが、しない。私はただ、自由になりたい。それだけだ。掛け軸に封印されて千年、どこにも出られなかった。辛いぞ。窮屈極まりない。私はもう山にでもこもって、のんびり暮らしたいんだ」 「普通の狐として?」 「まあ……そうだ」 「嘘をついていないという証拠は? 僕が封印を解いたとして、お前が僕を裏切って人間を殺そうとしたり……」 「その時はそれを巻けばいい。いくら自由になるとはいえ、本当の意味でそこから離れられはしないんだ」 「なるほどね」  それなら……と、諒一は躊躇いながらもゆっくりと巻物をほどいた。最後まで開くと、目の前の狐は大きく伸びをし、嬉しそうにくるりと回った。 「ああ、気持ちがいい。久しぶりだ……!」  言うが早いか、狐が諒一に飛びかかった。 「何をする!」  目の前に迫った顔は……狐ではなかった。長い鼻も、真っ黒な瞳も、口から覗いていた牙も、ない。着物をまとった美しい姿。端正な顔。唇の向こうに八重歯がちらりと見えた。その手で諒一の顔を包み、狐――いや、男が言った。 「私と恋に落ちないか」 「なっ……何を言ってるんだ。ていうかお前オスだったのか!」 「いかにも」  嬉しそうに目を細める。 「恋に性別は無関係だ。お前は美しい。気に入ったぞ」  巻物を巻こうとしたが、男が手を掴んで止める。 「そう邪険にするな。試してみろ。私の目を見ろ。じっと……そうだ」  抵抗しようと思っているのに、目が離せなくなる。深い池の淵から覗きこみ、計り知れない奥底まで引きずり込まれそうな、そんな感覚。 「ぼ……僕に何をしたんだ……」  声がかすれる。 「何もしてないよ。私はただ、お前を見つめている……美しいお前を」 「そんな」  言いかけて、諒一の喉がごくりと鳴った。男の妖しくも美しい顔が目の前に迫る。 「私のものになるがいい」 「よせ……」  小さな声が途切れ、次の瞬間、諒一は口づけを受け入れていた。男の手が諒一のシャツのボタンを外す。嫌だという意思を示すべくその腕を押し返したが、ひんやりとしたその腕は意外にも力強く、さらに深く口づけられる。  もう長い間、とくりとも動かなかった心臓が――跳ねた。  自分の中にあった渇望に気づく。 ――嫌だ。違う。僕はあの人が、あの人だけが……。  頭の中で必死に言い訳をする。ベストとシャツをたぐり、侵入した手が肌の上を滑る。男の手に惹かれ、求める自分を自覚して諒一は焦った。腰から脇、胸を通って首筋へと這い上がる淫猥な動きに反応しているのは体だけだと思いたい。心が高鳴っているわけじゃないと。 「んぅ」  自分の口から出た声に驚く。甘えたような声。男はその反応を見て唇に笑みを浮かべた。 「私が欲しいか」 「違う。……んっ」  体を裏返され、服を大きくまくられた背中に口づけられる。逃げ出そうともがいても、しっかりと押さえられている。腰に這う手に何かを期待している。まさか。違う。  男の長い指が服の上から腰骨、太腿、臀部とうごめいた。軽く撫でたり、時に強く力をこめたりするその手は、諒一の快楽をより引きずり出そうと目論んでいる。 「やめろ」  拒絶の言葉が漏れる。だが、力がこもっていないことは明白だった。 ――そこじゃ……ない。もっと……。  愛撫の手は諒一の心の声に反応するように下腹部へと伸びた。 「駄目、だ」 「嘘つきだな」  男は耳元で囁き、下着に手をぐっとさしこんだ。直に触れる指の感触が生々しい。大きな手の平に自分のものが包まれる。 「……っ」  顎が跳ね上がった。先端を指先でいじられて、固くなっていくのが分かる。期待していた動きに応えてしまう体を止めることはできなかった。 「僕の……体を手に入れたって、心は……あの人の、ものだ……」 「それは追々。今は体だけでいい。どうせ何も考えられなくなる」  そう言い、耳たぶを甘噛みする。少しの痛みが刺激になって、背筋がぞわりとした。 「はぁ……はっ」  息が荒くなってくると、男は諒一を後ろから抱きかかえた格好のまま体を起こしてあぐらをかいた。膝にすっぽりと乗せられている。両足は男の足に阻まれて閉じられない。 「やだ、こんな……」  蔵の中のひんやりとした空気は、二人の周囲だけ熱くなり、しっとりと濡れている。諒一は自分の体を捕えている左腕をはがそうとしがみついていたが、男の右手が動くたびに力が抜ける。もう、どうにもならない。 「もっと感じろ。もっとだ」 「やっ……やめ」  そう言いながら、諒一はもはや抵抗などできなかった。男は左手を外すと、指を唾液で濡らし、諒一の背後に回した。体の奥に侵入するべく、指がぐっと押しつけられる。 「おや、意外と滑りがいい」  呟かれた声で羞恥心が跳ね上がり、諒一は勢いよく顔を背けた。 「『あの人』とは、男だったか。それなら話は早い」  いやらしい響きを含んで笑うと、男はさらに差し入れて二本になった指先をぐにゅりとひねった。 「っあ!」  自分の声にもみだらなものが滲む。男の右手が再び動き出し、諒一の体がくねった。 「だめ……もう、それ以上は……っ」 「見せてみろ、最後まで」 「いや、だ……あ、んあっ……ふっ……くっ」  対抗できず、諒一は肩をふるわせて、先端から欲望の液をほとばしらせた。覗きこんでいた男は満足そうな笑みを浮かべた。 「なかなかいい顔だったぞ」 「最低……」 「何を言っている。褒めているのだ」 「お前なんか……嫌いだ」 「そう言うな。これから関係を深めていこう。森で隠居はその後でも遅くはないな」  汚れた指に舌を這わせ、にやりと男が笑った。 ――今すぐ、封印し直してやる。  諒一は深く息をつくと、体勢を整え直して巻物に手を伸ばした。 「人間に悪さをしたら封印し直せばいいんだよね。さっき、そう言っただろ」  そう言うが早いか、諒一はそれを巻き始める。 「おっ、おい。待て」  言いながら男は狐の姿に戻っていく。 「分かった! もうしないから! だから……」  最後まで巻いてしまう直前で手を止める。狐は息をのんで諒一の挙動を見つめた。諒一は手元に視線を落とし、黙りこんでいる。しばしあって、小さな声で狐に問いかけた。 「……僕の嫌がることはしないと約束する?」  狐は長い鼻をこくこくと素早く縦に動かしている。動物なのに、その必死さが表情に表れているようでなんだか可愛く思えてしまう。  はだけた服のまま、諒一はふっと笑った。 「僕がお前を好きになることなんて、ないと思う。だけど……それでも、そばにいるかい? 僕のものでいる、どこにも行かないって約束してよ。出来るなら、封印は解いてあげる」  諒一の目が潤むのを、狐はじっと見つめていた。 「美しいお前は泣き顔も綺麗だ。だが悲しませるのは俺の趣味じゃない。……分かった。そばにいよう。お前のそばを離れないと約束するよ」 「本当?」 「ああ」  諒一は手にした巻物を勢いよく振りほどくと、瞬時に人型になった男の胸に飛び込んだ。 「約束してよ……決して僕より先に、死なないって……」 「安心しろ。私は人間より相当に長生きだからな」  妖艶に微笑む男を見上げ、諒一は両腕をその首に回した。そして、口づける。 「お前は一生、僕の言い成りだからね」

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