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だから、半年だけ市の求人で訪問散髪の依頼を聞いて、ふらふらと自分探しの様に働きだした。
都心から離れた場所へ車で行って、切って帰るだけ。
でも、迎えてくれる老人の一人ひとりが温かくて――本当に居心地の良い仕事場だったのに。
一番俺を可愛がってくれていた、山の上の豪邸に一人で住んでいたお婆さんが、亡くなった時に、遺産相続に巻き込まれそうになった。
誰も訪問して来なかったのが寂しかったお婆さんは、――ゆかりさんという名前の小さくて上品なお婆さんだった。
『ぜひとも榛葉さんには、孫の嫁に来ていただきたいわ』
ちょっと痴呆が進んでいたので、俺の事を最後まで女だと思っていた。
(駄目だ。もう、思い出したくない)
今まで誰も訪問したこと無かったのに。
ゆかりさんが亡くなると押し寄せてきた親戚。
『ばあさんが財産持ちとしって近づいたのか!』
遺書に、俺の名前が入っていたらしく、揉め事の渦の中に入り込み、
ゆかりさんのお葬式では散々な目に合って――それからは怖くて訪問散髪は止めてしまった。
大好きな人の死は、苦しいし悲しいから。
ふらふらと満月に吸い寄せられるように歩道橋の上で天を仰ぐ。
過去を思い出しても、――俺が今後生きていても喜んでくれる人は居ない。
それならば、今日の詫びに命でも落としてしまえば、少しは弁償額の足しになるのではないか。
そんな気持ちの中、下を向く。
そうだ。
満月には手は届かないけれど、地面のほうは、満月よりも近い。
飛べば、すぐにそこへ行く――。
「何をしているんだ!」
険しい口調で、ネクタイをなびかせて、立花さんが走って来た。
「火事の弁償を、この身で」
「ふざけるな!」
怒鳴った立花さんは、俺の胸ぐらを掴む。
「お前を逃がさない。やっと見つけたんだ。絶対に――誰にも渡さない」
獰猛な瞳で見つめられて、ひゅっと小さく息を飲む。
「死ぬなら、その命、今日から俺のモノだからな」
乱暴に俺の胸ぐらを掴んだまま、立花さんは引きずるように歩道橋を降りて行く。
この日、俺の日常は浚われて消えて行ってしまった。
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