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第79話:リコリスの咲く夜空のしたに【航平と智秋】

 タクシーは喧騒の街から離れて、やがて車の通りの少ない道へと進んだ。  航平は後部座席の窓から移り変わる景色を眺めた。ここは笹木のマンションの傍を流れていた大きな川の海に近いところなのだろう。車は今、河口から上流に向けて走っている。  隣に座る笹木が航平の様子をちらちらと窺っているのが暗がりでも分かった。あれから、楽しい場の雰囲気に飲まれてかなりの量のアルコールを口にした。初めてだったが航平の父親も酒は強いほうだから、多分、自分もこのまま酔い潰れることはないはずだ。  航平は車窓を眺める視線を少し上へとあげてみた。そこには小さく霞む満月が頼りなげに浮かんでいた。 (東京でも月が見えるんか)  そんなことは当たり前なのに、なぜか航平はいたく感動してしまった。自分達の乗ったタクシーを追いかけてくる月を眺めていると、ふと、航平は今朝早く見た光景を思い出した。 (確かここら辺のはず……) 「すみません。ここで停めてください」  急に切り出した航平の言葉に隣の笹木が驚くのがわかる。それでも笹木は航平の願いを聞いて、お願いします、と運転手に告げた。タクシーが路肩に停まると航平は夜気に澄んだ歩道に降りたって、ひとつ大きく息をついた。 「航平くん、気分でも悪くなった? やっぱり飲ませ過ぎたかな」  心配そうな笹木の声がじんわりと胸に馴染んでいく。  もう今夜しかない。これを逃せば、もう二度と機会は無いような気がする。  航平は笹木に向かって「大丈夫」と笑いかけると、 「今朝、笹木さんのマンションから外を見たら、この川の土手沿いに遊歩道があるのが見えたんです。ちょっと酔い醒ましに歩きませんか?」  笹木は自分のマンションのほうに顔を向けた。きっとここからの距離を測っているのだろう。そして、いいよ、と頷いた。  川土手に設えられたコンクリートの階段を上がる。ずいぶん高く上がると右手に大きな川が現れ、川岸に沿って建つ建物には暗闇を照らすように照明が灯っていた。  鈍い月明かりが川面に反射している。航平は笹木の隣に並ぶとゆっくりと歩き始めた。  しばらくふたりで流れる川沿いを無言で歩く。日中は少し汗ばむほどだったのに吹く風はもう秋深い空気を含んでいた。

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