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第80話
「……笹木さん、今日は本当にありがとうございました」
隣の航平から丁寧な礼を述べられて笹木は顔を向けた。少し視線の上にある航平の横顔は真っ直ぐに前を見つめている。月明かりに浮かんだその精悍な輪郭に、笹木の胸の奥がとくんとひとつ打った。
「本当はこんな願い事、笹木さんに断られてもしょうがないと思っとったんです。だって、兄ちゃんとの想い出を辿るなんて笹木さんにはどれだけ辛いことかって……」
笹木は航平の横顔から視線を外した。そして、
「いや、これは僕にとってもひとつの区切りになったよ。実はね、今日案内した殆どのところは純也がいなくなってからは一度も足を向けなかったんだ」
やっぱり辛くてね、と囁く笹木の声を航平は逃さなかった。
「でもね、いつまでも縛りつけていたら駄目かなって」
「縛りつける?」
遊歩道を行く二つの足音に消されそうな声を航平は拾い上げる。
「リョウが言った通りだよ。いつまで純也に囚われているのかって。でもそれは逆のような気がしてね。あれから五年も経って少しずつ純也との記憶が不鮮明になっていくのに、それでも残った純也の欠片を僕は後生大事に心の中にしまいこんで、この世に彼を縛りつけているんだ。僕に五年も囚われたままの純也はどう思っているのかな?」
航平は落胆した。やはり兄の存在は笹木の中で大きすぎて揺らぐことはない。そんな笹木の心の中に自分が入って行けるのだろうか……。
「だから航平くんに案内して欲しいって言われたとき、これで終わりに出来るって思ったんだ」
「終わりって何を?」
「……もう来年からは広島には行かないってこと」
ふいに航平がその場に立ち止まった。暗い月明かりの下、勢いで数歩前に出た笹木は後ろを振り返ると「航平くん?」と、その場に立つ航平に声をかけた。
鈍い光の中に浮かんだ航平は少し顎を引いて両の拳を握り締めている。
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