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第83話
「……航平くんっ」
はあはあと上体を屈めて痛む肺に空気を取り込むと笹木は上目使いに航平を見上げた。航平は驚いたように笹木を見下ろしたあと、優しく微笑みを浮かべて、
「そんなに急いで来んでも俺は笹木さんの前からおらんようにはならんよ」
そんな笑顔に見惚れてしまう。しばらく外せない視線を合わせていたら、笹木は自分の右手が航平のシャツの端を握り締めているのに気がついた。
「ご、ごめん……」
慌てて離すと、その手を追うように航平の右腕が伸ばされて逃げる右手を掴まれた。航平が向かい合って、暖かくて大きな手のひらが笹木の右手をやんわりと包み込んだ。
澄んだ外気に晒されていた手に航平のぬくもりが伝わってくる。それは指先から腕を伝い、胸を通ると首筋を上がって頬を上気させた。
きっと耳朶まで赤く染まっているはずだ。笹木は航平の顔を見ることが出来ずに思わず俯いてしまった。
「でも、こんなに息を切らして追いかけてくれるなんて凄く嬉しい」
低く響く声が風に乗って奏でられる。本当にいつの間にこんなに甘く囁くようになったのだろう。笹木は沸き立つ恥ずかしさを悟られないように、
「君が川に入ると思ったから……」
航平は、ははっ、と笑うと、
「いくら俺でも、もう寒うなるのによう泳がんよ」
また口を閉じてしまった航平の視線を感じる。それは先ほどのきつく睨みつけられたものではない、優しく慈しむような視線だ。なぜか、それを面と向かって確かめるのが怖くて笹木は目を逸らした。
「笹木さん、ほら見て」
航平が包んだ手に力を込めた。その心地良い締めつけに笹木はやっと顔を上げた。だが、航平は自分を見つめてはいない。彼の視線は少し遠く周囲を見渡すように動いていた。
「こんなにようけ咲いとる。凄いね。まるで赤い絨毯みたいじゃ」
言われて初めて笹木も辺りを見渡した。転びそうになりながら降りた斜面の途中から、自分達が立っている場所を中心に一面川辺りを真っ赤な花が咲き誇っていた。
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