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第86話

 見渡した視線を戻した航平は、やはり寂しそうに笹木に笑いかけた。笹木は目の前に立つこの若者の姿に胸が締めつけられる。どうにかして彼の不安や哀しみを取り除いてあげたい。彼にはこんな表情は似合わない……。 「航平く……」 「笹木さん。俺はこの花になりたい」  自分を呼ぶ笹木の声を遮って航平ははっきりと言った。 「赤い花の中に咲くこの白い花のように……。兄ちゃんへの想いに埋め尽くされた笹木さんの心の中に入り込みたい」  金縛りにあったように体が動かない。大きく目を見開いて笹木は航平の顔を見つめる。航平は寂しい笑みを湛えたまま、ゆっくりと右手をあげて笹木の頬にそっと触れた。  航平は大きく息を吸い込むと、 「この白いリコリスの花言葉は俺の今の気持ち。笹木さん、俺は笹木さんが好きです。兄ちゃんが笹木さんを愛しとったのと同じように、俺も笹木さんのこと……」  吐き出す吐息と共に紡がれた愛の言葉は笹木の体の表面を暖かく包み込んだ。肌を覆った温もりが体の奥へと染み渡る。頭の先から、指の先から、足の先から。ゆっくりと浸透した温かさはやがて体の真ん中に集まってくると笹木の奥深くから一気に赤い世界を白に染めていった。 (ああ、なんて嬉しいんだろう……)  こんな気持ちは久しぶりだ。純也と愛を交わし合ったときにも感じた。だが、どこかが少し違っている。そう、これはまるで温かな水を漂うような心地よさ。  目の前の青年に僕は癒されている……。  心に拡がった温もりの中、笹木の胸に微かに澱む思いが徐々に競り上がってきた。  自分と彼は随分年が離れている。それに彼は亡くした愛しい人の弟だ。一度は彼の凛々しい若さと未来に満ちた存在に救われた。彼の成長を見守ることで、もう少しこの世界にいようと思った。でも……。

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