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第88話

「笹木さん」 「駄目だよ、航平くん。……いくら酔っているからってこんなこと」  今なら酒のせいだと笑って誤魔化すことができる。自分がおどけて言えば、彼だって気不味くはないだろう。そう、これは少年の憧れの延長だ。十五のころの彼が自分に抱いた大人への憧れの残骸……。 「……俺は酔ってもおらんし、ふざけてもいません」  風を遮って放たれた航平の台詞に、笹木の頬は微かに切られたような痛みを感じた。  航平の左の頬に貼られた絆創膏。ああ、同じように彼の否定の言葉に引っ掻かれたのか。 「笹木さん、俺は本気で言うとります。あなたを愛しとるって」  航平の手のひらが優しく頬を撫でる。その慈しむような温もりに流されそうになる。  駄目だ、突き放せ、という自分と、彼をこのまま永遠に縛りつけたい自分と――。  笹木の心は風に吹かれるリコリスの花のようにゆらゆらと揺れた。 「笹木さんは俺のこと、どう思っとるんですか?」  航平に聞かれてその場で体が強張ってしまった。航平は笹木の頬に手を添えたまま、真剣な面持ちで逸らした瞳を合わせてきた。 (何か、何かを答えてあげないと。でも一体、何と言えば……)  こくんと喉を鳴らした。それでも口の中はなぜかカラカラで上手く舌が動かない。何とか唇を小さく開けると、笹木は頬に添えられた航平の右手をやんわりと掴んだ。 「……航平くん」  自分の声がまるで透明なガラスの向こうで囁かれているように聞こえる。航平の右手を頬から離して悲しそうに笑いかけると、 「自分の言っていることがわかっている? 君は男の僕が好きだと言っているんだよ?」 「わかっとります。……俺も兄ちゃんと同じじゃと気がついたから」 「同じって……。君は何もわかってなどいないよ。これは普通じゃないんだよ? 同性同士で好き合うなんて若い君にはリスクしかない。やっとマイノリティを受け容れようとする気風も生まれてきたけれど、社会的にはまだまだ差別の対象になるんだ。君の友人の中には遠ざかる人も出てくるよ。これからの就職活動にだって響くし、社会に出ると冷たい眼にだって晒される」  俯き加減で捲し立てる笹木を航平は黙って見つめた。

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