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第91話

「笹木さんっ。笹木さん、ありがとう。嬉しい。ぶち嬉しいよ……!」  肩口に航平の頭がぐいぐいと押しつけられる。時おり、湿った音が耳に響くのはキスをされているのだろうか。その証拠に柔らかな感触が右耳のすぐ下から首筋をなぞっている。笹木の両腕は行き場を無くしてだらりと下がったままだ。この広い背中に手を廻したいが、どうしたものか指先は少しも動いてくれなかった。  嬉しさに興奮しているのか、航平は粗い息を何度も笹木の首筋に吹きかけた。その吐息は仄かなアルコールの香りが混じっていた。  しばらくの間、笹木を抱きしめていた航平の腕の力が緩められ、ゆっくりと体が離れていく。互いの体の間に冷たい風が入り込んでその侘しさが胸を包み込む前に、両肩に添えられた航平の指先に力が篭ると、 「笹木さん……。あの……、キスしても、ええ?」  薄暗がりでも航平の顔が赤く染まっているのが見えた。さっきまで笹木を真っ直ぐに見つめていた瞳が、なぜか今は恥ずかしげに焦点が合わずに彷徨っている。 (ああ、彼も不安だったんだ……)  まだ彼を受け入れる覚悟なんて出来ていない。でも――。  笹木は航平の厚い胸に右の手のひらを添えた。ほんの少しだけ爪先立ちになって、背の高い彼の顔へと自分の顔を近づける。航平の喉からコクリと微かな音が聞こえて、それを合図に笹木は両の瞼を軽く閉じた。  熱い吐息が顔に掛かった途端に、唇に航平の唇が押し当てられる。それはとても軽くて、暖かくて、そして小さく震えていた。  初めての口づけはただ唇を重ね合うだけの拙いキス。しばらくすると航平はゆっくりと顔を離して、また笹木を強く抱きしめた。抱きしめられた航平の肩ごしから見えるのは川原を埋め尽くす赤い花の群れ。鈍い月の光の下に浮かんだ真紅の花々が揺れるさまを、笹木は息を詰めて瞳に映していた。

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