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第106話
***
(真っ赤じゃ――)
目の前に拡がるのは無数のリコリスの群れ。針のような細い花弁を月の光が射す夜空へ向けて広げる様は、まるで何かにすがろうと手を伸ばしているようにも見える。
彼岸花、曼珠沙華、そして死人花。
確かに深紅の花は鮮やかで人目を惹く。だが、こんな忌み名を持つ花をなぜ兄は好きだったのだろうと航平は思った。
(花言葉は……、悲しい思い出)
眼下に広がる赤い花達をぼんやりと眺めていると、月明かりに照らされた花畑に誰かが立っているのが認められた。
(――あれは……)
その人物はこちらに背中を向けて赤い花の中心から夜空の月を仰ぎ見ている。やがて顔を月から離すと、その人物はゆっくりと歩き始めた。
(あれは……、兄ちゃんじゃ!)
その背中を忘れるはずもない。白いシャツと黒のズボンは兄の高校のころの制服だ。航平は思わず大きな声でその人物を呼び止めた。
『兄ちゃんっ!』
叫んだ声がやけに幼くてびっくりしてしまう。驚いて口をつぐんだはずなのに『兄ちゃんっ』と、また幼い声が自分の隣から聞こえた。隣に視線を向けると、そこには一人の少年が今にも泣きそうな顔をして大声を出していた。
『危ないけえ、お母さんが行ったらダメって言いよったじゃろっ。早よう戻ってきて!』
(この子は俺じゃ!)
幼い航平の声が聴こえないのか、その人物は遠くまで続くリコリスの草原をゆっくりと歩いていく。兄ちゃん、置いて行かんでぇ、と半ベソの少年はとうとう急な川土手に向かって駆け出した。
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