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第107話

「危ないっ」  幼い自分に咄嗟に手を伸ばす。でもその手は空を斬ると、あっという間に少年は真っ赤な花畑へと姿を消した。慌てて航平も幼い自分のあとを追った。何度も足を滑らせ、転びそうになりながら息を切らしてリコリスの群れの中を駆けて行く。見下ろしていたときには大して広い花畑では無かったのに、行けども行けども敷き詰められた赤い花ばなは途切れることがなく、心臓が破れそうなほどに走ってようやく少年に追いついた。  はあはあと呼吸を整えていると、少年は自分の前に立つ人物を見上げて立ち尽くしていた。航平も渇いた喉を潤すようにひとつ唾を飲み込むと、少年の視線の先を辿った。 (ああ、やっぱり兄ちゃん……)  そこには優しく笑う兄の顔。純也は最後に別れた高校生の姿のままで、航平に笑顔を見せていた。そしてその優しい目は幼い自分に注がれていた。 『兄ちゃん、どうしても行くんか? なんで出て行くんや。なんで……』  これは純也がいなくなった夜の最後の別れのときか? 『航平、兄ちゃんな、やっぱり先生が好きなんよ。でも、ここにおったら皆に迷惑をかけるし、二度と先生にも会えんくなるから。だから先生と遠くへ行くよ』  行かんでえ、と少年は泣き出した。純也はその小さな坊主頭を撫でると、 『泣くな、航平。絶対に兄ちゃんは帰ってくるから。先生と幸せになるから、お前は泣かんでもええ』 「嘘じゃっ! 兄ちゃん、絶対に行ったらいかん!」  思わず航平は大声で純也の言葉を遮った。

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