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第108話
「アイツは兄ちゃんを捨てたんじゃ! 弄んで、馬鹿にしくさった酷い野郎だったんで!? 絶対に行くな! 俺が行かさん!!」
声の限りに目の前の純也に向かって叫んだ。でも、純也には聞こえていないのか、優しい笑みをその綺麗な顔に湛えたままで幼い自分の頭を撫でている。
「お願いじゃ、兄ちゃん。俺の傍におってくれ。親父やお袋を泣かさんでくれ。笹木さんをひとりにせんでくれよ……」
急に強い風が純也の背後の暗闇から吹いてきた。その突風は赤いリコリスに叩きつけて、細い花弁が一斉に夜空へと舞い上がる。一瞬、視界が赤く遮られて航平は強く瞼を閉じた。
ビュウビュウと耳に響いた風の音が静かになってきて航平は恐る恐る目を開いていく。あれほど強い風に花びらが舞ったのに、リコリス達はまだ見渡す限り赤く咲き誇っていた。
「航平、大きな声を出すなよ」
呼びかけられたほうへ弾かれるように顔を向けた。幼かった自分はいつの間にかいなくなって、そこには兄の純也がひとり立っていた。
兄ちゃん、と呼びかけようとしたが何故か言葉が出てこない。いや、なにかが喉に絡みついて航平は声を出すことが出来なかった。
「すっかりオッサンの声になっちまって。父さんによう似とるな」
強い風に座りこんでいた航平はその場に立ち上がると、リコリスの花を踏まないようにそろそろと純也の前へと歩みでた。あのころの自分はいつも兄を見上げていた。なのに今は、あのころと変わらない兄を見下ろしている。
「……大きゅうなったなあ、航平」
笑顔で言われて、今度は別の意味で喉の奥が詰まった。純也と話がしたいのに一向に言葉は浮かんでこなかった。
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