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第118話
「さてと、行くかな」
航平が右肩にリュックを下げてベンチから立ち上がる。笹木も後ろ髪を引かれるように立ち上がると、デッキへと足を踏み入れた航平の背中を眺めた。長い新幹線のホームには自分達と同じように別れを惜しむカップルがちらほらいる。皆、刹那の逢瀬を楽しんで、その熱い想い出を胸に遠く離れた恋人にまた再び逢える日までの長い日々を過ごすのだ。
ドアが閉まります、と繰り返されるアナウンスの中、目の前の航平が振り返ると大きく両手を拡げて満面の笑顔を笹木に見せてくれた。その姿に、笹木の胸に押し込めた愛おしい想いが一気に堰を切って溢れ出た。
「っ! 航平っ!」
いい歳をした大人が、という良識はもう無かった。笹木はホームからデッキに足をかけると航平を求めて手を伸ばす。その手を力強く手繰り寄せ、航平はきつく笹木の体を抱きしめた。
どちらからともなく唇を重ねる。何度も顔の角度をかえ、繰り返される熱い接吻の感触を笹木は少しでも記憶に残そうした。
ちゅ、と水音をたて、唇が離れていくと航平は笹木の耳元で、
「智秋さん、俺は必ず春にはここに戻ってくる。じゃけえ、少しだけ待っとって。そして来年の夏はここからふたりで広島に、兄ちゃんに会いに行こう」
「……うん、うん。待ってるよ、航平……。待ってるから……」
涙声の笹木の頬に軽く唇を押し当てて、航平は優しく肩を押し出す。ふたりの体が離れて笹木はホームに降り立つと、それを待っていたかのように列車のドアが閉まった。厚い扉の向こうの航平は右手を耳元に当てて、また電話する、とジェスチャーを交えて唇を動かした。
車両がゆっくりとホームを離れ、手を振る航平の姿が小さくなり、列車の赤いテールライトが見えなくなっても、笹木はずっとその軌跡を見つめていた。
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