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第2話
忘れていた財布を掴んで店を飛び出し、唇を強く噛んだのは、こうしていないと叫び出しそうだからだ。
人波を掻き分け馴染みのバーのドアを開けると、ようやくほっと息をつく。平日の七時なんて店は閑散としている。カウンターに駆けよって腰を下ろすと、髭のマスターが不思議そうに尊を見た。
「なに、どうかしたの?」
「ヤバいよ、マジで、ヤバいって。だってあの人格好いい癖に笑うと可愛いんだよ、今すぐ押し倒して食いてえ!」
耐えていた言葉を一気に吐き出し、拳をカウンターに叩きつける。奥寺にハマってはいけないと分かっているのに、これは最早、手遅れかもしれない。隣にかけていた常連客がニヤケながら口を挟んだ。
「食えばいいじゃない。何、相手は誰よ?」
「駄目だよ、職場のノンケだし」
「ノンケ大好物でしょ。あ、もしかしてこの間持ち帰った背の高い人? ノンケだったんだ?」
「間違えてこの店来たんだってさ。あー、もう本当どうしよう。惚れたっていいことないのに」
「押し倒せばいいじゃない。初物食いのタケルちゃん」
「奥寺さんはそんな風にやっていい人じゃねえもん」
それにインポだし、とは口が裂けても言わないが。
「奥寺? やっぱりあれ奥寺だったんだ」
マスターが不意に会話に割り込んできて、尊は思わずまじまじとマスターの顔を見つめた。
「マスター、奥寺さん知ってるの?」
「ああ、高校の同級生。まあ、アタシがこんなになっちゃったから交流はしてないけど、年賀状はやりとりしてるの。どっちかっていうと地味な顔よね。でもモテたわ。結婚も早かったし」
結婚という言葉にどきりと心臓が大きな音を立てた。奥寺の過去を詮索するなんて悪いことだと思う一方で、知りたいとも思う。何気ないふりで口を開く。
「バツイチだけどね」
「まだ再婚してないんだ? もう二十年近く前なんだけど、傷が深かったのよ、可哀そうに」
可哀そうと言われるほど傷が深い離婚とは何なのか、そんなことは問う間でもない気がする。
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