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第7話
――――!
声が聞こえる気がするのに、何を言っているのか聞き取れない。ここは、どこだろう? 漂うように心地よい。
――――!
あぁ、その声が懐かしい。お前は私を知っていたんだな、ナストゥーフ。さぞ、恨んだろう。薄情な奴だと、憎んだだろう。だから今、私に復讐をするのか? 見限った友人を恨んできたのか?
――ラン!
どうして私は、お前を忘れたのかな。それすらも思い出せないんだ。お前の生死さえ、私は覚えていなかったんだ。
「…………ぃ」
虚ろな世界。漂うような感覚。それでも、掠れた小さな声が出た。体に触れる熱が、より確かになる。たった一言、お前に伝えたいんだ。
――ナストゥーフ、すまなかった。忘れていて、すまない。
口の中を、体を、潤すのは爽やかな冷たさ。知っている花の香りが包んでくれる。唇に触れる柔らかな感触と、続く冷たさが喉を通り過ぎていく。
体が熱い。もっと、水が欲しい。
「いくらでも」
柔らかな声がとても近くに感じる。重く腫れた瞼を押し上げた。その視界に、彼が映る。黒い髪、青い瞳。随分大人の顔になったんだな、もう子供の面影なんてない。
でも、今なら分かる。子供の輝きは見えなくても、揺れる瞳にお前がいる。明るい笑顔はなくても、泣きそうなその顔に覚えがある。
冷えた水を含む唇が、私の唇に重なる。喉を鳴らして、それを飲み込む。焼かれるように熱かった体が癒えていく。肌に触れているのは……水か?
「貴方は、なんて馬鹿なのです。せっかく助かった命を捨てようなんて」
それは、いつのことを言っているんだ? 幼い時分の話しか? それとも、領地を奪われた後の話しか?
声など出せないまま、指一つ動かせないまま、私はされるがままに蜜水を与えられる。徐々に渇きが癒えて、燃えるような熱が去り、次に穏やかな眠りに落ちるまでずっと、抱きしめている温もりを感じたまま。
「第六王妃が犯行を認めました」
誰かが父に話しているのを聞いた。こっそりと身を潜めていた。
「あれは最近、子を産んだのだったな」
「はい、第三王子です」
「母子共々処刑しろ」
「……畏まりました」
恐ろしい会話が目の前で展開される。身を硬くする私に気付かないまま、誰かは出て行く。
父がこちらを向いた。気付いていたのだと知って、動けなくなる。
「出てきなさい、アスラン」
命じられ、すごすごと出て行く。父の前に来た私を、父は真っ直ぐに見つめた。
「お前を殺そうとした妃とその子供の命は、今夜までだ。お前の軽率さが何を招くか、王子であるお前は自覚しなければならない」
「父上、ナストゥーフは!」
たまらず私は聞いた。彼はどうなったのか、誰も教えてくれない。親友なのに、私は何も知らないんだ。
父は静かに首を横に振った。私の心は凍り付き、悲しさと苦しさに叫びそうだった。
「残念だった」
「!」
苦しくて、悲しくて、胸が潰れてしまいそうだった。
逃れるように走り去って部屋に籠もり、三日三晩泣き腫らした末に熱を出して寝込んだんだ。
覚えている、私はこれを機に宮殿の外に出る事を止めた。大人の世界で生きるようになった。ナストゥーフの名を、遊んだ日々を、追いやるように思い出さなくなった。意識して……そのうち本当に忘れてしまった。
体を包む柔らかな感触。気怠いが、持ち上がった瞼。体の感覚がある。その手に触れる熱も。
「気がつきましたか?」
声に視線を向けると、沈痛な様子の青い瞳がある。左目に、銀の仮面をつけたまま。
「貴方は食べる事も飲む事も拒んで、死にかけていたのですよ。俺が予定よりも早く戻って異変に気付かなければどうなっていたのか」
咎める言葉と口調に相変わらず抑揚がない。でも、心配してくれたんだろう。眉根を寄せるその視線が、痛みを私に伝えてくれる。
「アスラン様、聞いていますか?」
聞いている。今なら、届いている。
私は手を伸ばした。酷く重くて、震えたけれど持ち上がった手。その手でそっとナストゥーフの頬に振れた。そして、銀の仮面を止める紐を解いた。
「なにを!!」
カランッと大理石の床に落ちる仮面。ナストゥーフは隠すように手で左目を覆った。恐れが瞳に現れる。だが私はその手に触れて、下ろさせた。
大きな刀傷がある。落ちくぼんだ左目は、開くことがない。痛々しく引き連れた傷跡は、今も痛そうに見える。
「醜いでしょ? 昔戦で……」
「私がつけてしまったのだな……」
今度こそ、ナストゥーフの顔から嘘も余裕も消えていく。見開かれた右目が、次第に切なく揺れていく。
あぁ、知っているよ。ようやく私の知るお前に出会った気分だ。少年の頃、お前はそんな顔をよくしたね。私の方が気が強くて、お前は感情が豊かでよく表情を変えた。驚いたり、焦ったり、寂しそうだったり。でも一番は輝くような笑みだったのに。
「私を、恨むか?」
「恨む?」
「お前を、忘れていた。こんな傷をつけたのに、私は……」
お前から笑みを奪ったのは、私なのか? あれから、どうやって生きて今に至ったんだ。
私は知りたい。例え全てが憎しみでもいい。お前の事が、知りたい。
「お前と、話しがしたい」
頭に浮かぶ気持ちを吐き出す。切なく揺れている青い瞳を見つめながら。
「まずは、体を治してください。今のままでは、死んでしまいそうです」
優しく落とされる唇が、慈しむように額に触れた。
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