112 / 151
第113話
◇ ◇ ◇ ◇
――とん、とん……
「や、夜分に申し訳ありません――魄です、中に入りたいのですが宜しいですか……母上、母上!?」
何度も、普段母上が公務している部屋の戸を叩いても――中からは誰も出てくる気配がなく、声が聞こえてくるような反応すらない。
(でも……鍵はあいてる――いつもは鍵が掛かっているはずなのに……母上……申し訳ありません)
内心では申し訳ないと思いつつ、僕は後ろに、ぎゅうっとくっついている王花様と共に母である尹医師の公務室へと足を踏み入れた。
そういえば、この公務室にだけは――今まで足を踏み入れたことはなく初めて入るという事に不意に気付いた。そのせいで、思わず辺りを興味深く見つめてしまう。
――ごとっ……
そのせいで浮かれてしまっていたせいだろう。
うっかり――棚から出ている何かに足を取られ、転んでしまいそうになった。運良く転びはしなかったものの、僕が躓いてしまった何かがその拍子に棚から落ちて――床をごろり、ごろりと転がっていく。
それは――少し小さめの人形だった。
おそらく、昔から刺繍や裁縫が大好きな母上が自分で作った衣服を身繕うために用意した人形なのだろう。幼い頃に――ぼんやりとだがこのような人形を母が持ちながら僕に優しく歌を歌ってくれていたのを――ふっ、と思い出した。
(まったく……僕は――何をやっているんだ……申し訳ありません――は、はうえ……っ…)
と、その人形を拾い上げようとした時に――ある異変に気付く。
中庭の池で無惨にも手にかけられた護衛官の男――。その男によく似ている今しがた棚から落ちた人形の口元が、黒い糸でぎざぎざに――縫い付けられていた。
どくん、どくん……と僕の心臓が早鐘のように音を鳴り響かせている。これ以上、見ては駄目だ――と心の中で己に警告を発しながらも――人形が落ちた棚の方へと手を伸ばさずにはいられない。
(母上の公務室に――何故、何故……こんな物が……まさか、まさか……母上が……)
護衛官に似せたように作られた人形が落ちた棚から――もうひとつの人形がない事を祈りながらゆっくりと手を伸ばそうとしたその時――、
「ごそごそと喧しいな……こんな夜分に何をしているのだ――魄よ?先程、起きたばかりで二度寝しようとしていた所を邪魔するとは――いい御身分ではないか?」
「せ、世純様……っ……!?」
背後から呆れたような世純の声が聞こえてきたため、慌てて棚から手を引っ込めると――そのまま怪我人である世純の元へと駆け寄っていくしかないのだった。
その時の僕は異様な人形がある棚を確認するべきだ、という嫌な行為から目を背け、現実を受け入れる事が出来ずに――見て見ぬ振りをしていただけだという誤りに気づくのはそれよりも暫く後の事だと知る由もなかった。
ともだちにシェアしよう!