170 / 288

Ⅵ【ファウスト】第30話

ハルオミさんっ、あなたはっ 俺のフェロモンの影響を受けない。 艦内で素顔のままでいられる。 「君の運命のαだ」 離れた唇が紡いだ歯車の名前を、彼は再び耳元で囁いた。 「私が、ナツキの運命のαだよ」 運命を刻みつけるように。 耳朶に唇を落とす。 「君には運命のαが二人いる」 この場所で。 ガスマスクを付けずに立っていられる男は、二人 「私とユキト。君は運命を選択した」 そして、君は……… 「私を選んだ。私が君に選ばせたんだよ」 俺の体……… ハルオミさんの腕の中にいる。 ハルオミさんに抱きしめられている。 「君を渡さない」 低く…… 「君をユキトには渡さない」 鼓膜を震わせる声が、脳裏を駆けた。 「これからも君は、私を選択し続けろ」 運命は廻る。 歯車と歯車がぶつかり、軋んでも、回転は止まらない。 固い漆黒の視線が俺を見ている。 ユキト…… 応えられる言葉を、俺は持ち合わせていなかった。 さっきまで俺が握っていたのは、ユキトの手 ………………だけれど、 俺の体は今、ハルオミさんの腕の中にある…… 運命のαの選択は、既に終わっている。 二回目の選択はないんだ…… 「仮面の男からの連絡が入ったら、元 提督ほか三人の画像を公開しろ。 私は交渉の表には出ない。常にトップと交渉できると思われては、付け上がらせるだけだ。 テロリストは我々の足下にも劣るものである。対等の交渉はしない。その事を分からせるために、交渉は君達で行え」 俺の肩を抱いたハルオミさんが、背後に指示を飛ばした。 「私は自室で待機する。連絡は逐次入れてくれて構わない」 「Alles Klar(アレスクラー〈了解しました〉)!」 ガスマスクの兵士達が、敬礼して持ち場に戻る。 「君もだよ……ユキト」 宵闇のサファイアが見返った。 「ご苦労だったね。自室で待機してくれ」 すぅっと切れ長の玲瓏を細めた。 「暴漢に襲われて怯えている彼を置いていく事はできません。彼の傍にいます」 「……それは私の役目だよ」 (ひる)まないブラックダイヤの眼 藍色のサファイアが絡め取る。 「命令に従ってはくれないか」 「俺は彼に必要とされていますので」 「それを言うかい?夫の前で」 頬を撫でた手がヒヤリとして、思わず背筋をこわばらせた。 「君がこの場に留まるならば、私は君に問わねばならない」 肩をグッと掴まれた。 頬をなぞった手が、シャツのボタンを弾く。 「……守れずに、すまなかったね」 冷たい指先が鎖骨に触れた。 吐息に吹かれた首筋が、地熱にあてられたかのように疼く。 「私の妻を傷つける者は許さないよ」 指の下には、赤い痕がある。 見られた! ハルオミさんに。 「私は運命を傷つける者が嫌いでね……」 首筋にも、肩口にも、散らされた赤い鬱血の花びらがさらされる。 「誰だろう。私達、夫婦の運命を傷つけた者は?」 身動きできない。 俺は、堅固な腕の中に囚われている。 「これはっ」 傷つけられたんじゃない。 俺が、ユキトをっ。 「傷つけたんですよ。俺が、ナツキを」 どうして、ユキトっ なぜ、そんな事を言うんだっ 「ナツキなら許してくれるという俺の甘えが、ナツキを傷つけた」 「では、君がここに留まる理由はないだろう。これ以上、傷つけたくなければ身を引くべきだ」 「逆です。ナツキに許しを請うて、俺はナツキの傍にいます。ナツキに刻んでしまった傷を俺の胸に刻んで。 これからは傷ではなく、たくさんの想いを伝えたい。想いを刻んでいきたい」 「……許しは、夫である私には請わないのかい?」 ブラックダイヤの眼の奥 揺るがない光が輝く。 「俺は、生まれてくるナツキの子の父親になります。あなたに遠慮はしません」 本気か、ユキト……… お前は俺との間に子をつくって、兄を裏切るのか?

ともだちにシェアしよう!