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Ⅵ【ファウスト】第33話

あのガスマスクがァァーッ! 「待て!ナツキッ」 声は届かない。 ハルオミさんの腕を振りほどいた。 フェロモン濃度はまだ高い。 ガスマスクに少しでも傷が付けば…… (お前も吸入して、悶え苦しめよ!) 発砲の前に懐に飛び込む。 俺の手はナイフを握っていた。 ギランッ 白光(びゃっこう)を突き立てた刹那 「ァウッ」 膝がみぞおちに入った。 手からナイフが滑り落ちる。 動きが読まれている。 (撃たれるッ) だが…… 銃声が鳴らない。 どういう事だ? 考える暇はなかった。 (体がッ) 抱え上げられている。 視界はガスマスクの男を見下ろしていた。 俺の体が、男の肩の上にある。 銃はハルオミさんを狙ったんじゃないのか? こいつは元 提督の配下で《トリスタン》強奪のため、ユキトを撃って、ハルオミさんを狙った。 ……そうじゃないのか? (最初から狙いは俺だった?) 拳銃が発砲した。 足元を狙った威嚇射撃だ。 物陰に飛んで、ハルオミさんが撃ち返す。 当たらない。 発砲を繰り返す間に、ハルオミさんとの距離が開いていく。 「18番通路封鎖!」 小型無線機でハルオミさんが指示を飛ばす。 「16・17・19番通路、配置固めろ!」 指示の声が遠くなる。 ハルオミさんが小さくなっていく。 「ナツキッ」 血に濡れた床で…… 顔を上げた。 声が俺を呼んだ。 「ユキト!」 俺の落としたナイフを拾って走り出す。 「動くなッ」 お前は動いちゃダメだ。 血を失ってしまう。 ………なのに。 「渡さないッ!」 血に濡れたナイフがプラスチックを叩き割った。 グガガガガァー 金属音が頭上で軋む。 防火シャッターだ。 火災報知器のベルが鳴る。 天井から壁が下りてくる。 ガシャァンッ! 隔絶された。 寸でのところで、わずかにガスマスクの男の足が勝った。 閉まった防火シャッターを背にして、俺を抱えた男が走る。 なぜだ? こいつはなぜ、俺を殺さない? 元 提督配下じゃないのか。 周囲を警戒して、男が一室のドアを開けた。 誰もいない。 空き部屋だ。 俺の体を肩から下ろす。 丁重に…… 「手荒な真似をしてすみません」 初めて男が喋った。 どうして俺に敬語を使うんだ? こいつは俺を知っている。 お前は誰なんだ? ガスマスクを装着しているせいで、声がくぐもっている。 (もう少しで、こいつの正体が分かるのにッ) 「《ローエングリン》のパイロットの傷は見た目よりも浅いです。一応、外して撃ちましたので」 ユキトを気遣った? ……否。 ユキトというよりも、ユキトを撃った事による俺の不安をなだめているのか? 「あなたも、それに着替えてください。α兵に紛れて脱出します」 ガスマスクの男が指したのは…… α兵士の軍服! ガスマスクもある。 どういう事だッ? ガスマスクの男………お前は何者だ? 「5.86ppm……少しの時間なら大丈夫か」 腕のフェロモン濃度計の数値を確認して、男が自らのガスマスクに手を掛けた。 顔を覆うガスマスクを外す…… 「お前はっ」 マスクの下の茶色い髪が揺れた。

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