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Ⅵ【ファウスト】第37話

煙る視界……… スプリンクラーの雨が降る。 火災の熱で冷やされた蒸気が、一気に押し寄せる。 真っ白い煙がもうもうと立ち上った。 前が見えない。 ガスマスクのゴーグルが蒸気と水滴とで閉ざされて、視界を塞がれる。 アキヒトも、α兵も。 身動きができない。 ガスマスクを外せばフェロモンに侵される。 統制を失った今こそ好機だ。 (ボートはまだ動くか) 燃えているとはいえ、延焼を防ぐシステムが稼働した筈だ。 試す価値はある。 (アキヒトの手を掴んで、ボートに乗り込めば) 脱出できるかも知れない。 ………………………………けれど。 ほんとうに、それでいいのか? 俺はそれで…… しかし、いま行かなければ脱出の機会は二度と訪れないだろう。 俺じゃない! アキヒトだけは逃がさないと。 アキヒトが捕まったら……処刑の危険も有り得る。 Ωは繁殖用として生かされる可能性がある。 だが、アキヒトはβだ。 αにとって、生かすメリットがない。 (逃げなければ!) 「渡さないよ」 背後から手を掴まれて、俺は……… 「ナツキを誰にも……」 熱い胸に顔をうずめている。 掌が舞い降りた。 髪を梳いた手が、後頭部を抱きかかえて、そして…… 包んだ。 強く、強く、離さぬように。 天井から降り注ぐ絶え間ないシャワーの雨に濡れて。俺達二人は、煙る白い視界の中で人目も(はばか)らず…… 濡れた体を抱き寄せて、抱き合って。 冷たい雨の中、互いの温もりを確かめ合う。 微かに鉄錆びた血の匂いがした。 アキヒトに撃たれた脇腹の傷だ。 傷ついても……お前は俺を愛してくれる。守ってくれるんだ…… この体で、身を呈して。 腕を回して包んだ広い背中 あたたかいよ、お前の体は…… 雨が、俺達を隠す。 「俺はただ、こうしていたいだけなんだ。ずっとナツキを守りたい」 行かせない。 雨に濡れた唇がささめく。 ………俺が留まれば、 ………お前が留まれば、 (戦争は終わるのか?) (戦争を終わらせる) ………誰も傷つかず ………誰の命を奪わずに (ほんとうに終わるのか?) (終わる) ………シルバーリベリオンの名を葬れば、 ………シルバーリベリオンは、もうお前じゃない。 あの仮面の男! (違うッ!あいつはシルバーリベリオンじゃない!) 俺が戻らなければ。 シルバーリベリオンに!! そうして終わらせるんだ。 戦争を起こした首謀者としての責任だ。 シルバーリベリオンが、シルバーリベリオンを終わらせる。 雨の声が聞こえた。 俺に、戻れ……と。 雨が呼んだ。 打ちつける白い雨が…… 前髪から滴る銀色の雫を、そっと払った時、ブラックダイヤの目が泣いているようにも見えた。 これはただの水滴だ。 天井から落ちてきた水飛沫なんだ…… 「α……」 俺を抱きしめる男を呼んだ。 「俺は、銀の叛逆者(シルバーリベリオン)だ」 濡れた頬を手でなぞる。 「俺を殺すか、俺を生かすか……」 頬に落ちた雨跡を指が辿る。 「α、お前が選べ」 但し! 俺を包む腕を払い、アキヒトの腕を掴み上げた。 後ろ手に絡めて、アキヒトの体躯を床に伏せさせる。 「俺を殺せば、この男の命はない!こいつはお前の所属部隊の兵士。そうだな!」 こうするよりほか道がない。

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