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Ⅵ【ファウスト】第52話

モニターが灰色のノイズを奏でる。 通信回線が切れた。 ハルオミさんと話す事はもうない。 次に彼と話すのは、シルバーリベリオンとなった時だ。 シキ ナツキが、夫と話す機会は訪れないだろう。 時は掻き消える。 握った手の温もりさえ、今は思い出せない。 「……よく頑張りましたね」 背中から腕を回されて、抱き寄せられた。 「統帥はとても頑張りました」 耳朶に吹きかけられた吐息の熱 (なにをだ?) 俺は当然の事を行ったまでだ。 我が策によって《トリスタン》投下を止める。 結果は成就していない。 だが。 ハルオミさんを東京へ引きずり出す、策略の第一段階は成功した。 足掛かりは作った。 ここからだ。 俺は何も頑張っていない。 《トリスタン》を阻止する。 結果をまだ出していないのだから。 俺は…… 為すべき策を淡々と遂行しているに過ぎない。 俺の策に……俺が動かされているのか? そんな錯覚さえ、現実のように感じる。 現実離れしているようにも感じる…… 早く、次の策に移らなければ! なのになぜッ 離してくれないんだ! 「アキヒトッ」 振りほどこうとした腕は、逆にギュウっと俺を戒めた。 事は一刻を争うんだ。 俺が相手をしているのは、黒の支配者(シュヴァルツ カイザー)なんだ! 策略がまだ……完成していないんだ…… 「離せッ!」 拘束が重い。 肩に体温がのし掛かる。 「嫌です!」 「アキヒトッ」 「離しません!」 ………………体温が(せな)から浸透してくる。 トクトク、脈打つ心臓の音が、俺をお前の腕の中に縛りつけている。 「10秒でもいいです。5秒でもいいです」 心音と同じ速さで、声が語りかける。 「休んでください、どうか……」 「馬鹿を言うなッ」 シュヴァルツ カイザーに策をねじ伏せられる前に、動かなければ! 「休まなければ、あなたが倒れます」 「離せ。俺は動ける」 「あなたの心が倒れます!」 あなたは…… 「Ω解放軍 統帥です。俺の統帥は、ナツキさんという一人の人間なんです」 ヒダカ ナツキでも、 シキ ナツキでもない。 「あなたは、ナツキさんなんです。ただの人間なんですよ」 背中の温もりが強く。 ……体躯を抱きしめた。 「いつまでも、そばにいます。俺がずっとずっと、そばにいます。俺がッ」 トクンッ 背中の心音が、左胸の心臓と重なった。 「あなたから、あの男を忘れさせますから……」 首筋にうずめた温もりから、吐息が漏れた。 「俺に、あなたをください」 「アキ…ヒト……」 「俺はあなたの騎士です。どんな事があろうとも、俺はあなたを守る剣です。 ……だから、今だけは。俺に身を預けて休んではくれませんか」 銀色の冷たい仮面の頬を、そっと掌が撫でた。 「この仮面は、ナツキにとって大切なものなのは分かってるよ」 声が静かに降ってくる。 「ナツキは、この仮面と一緒に戦ってきたんだね。Ω統帥として、ずっと仮面に自分を映して、仮面を自分の顔にしてきたんだね」 真綿のように…… 真っ白い綿のように俺を包む…… 雪のような声が舞い降りる。 「……でもね。ナツキの素顔は仮面の下にあるんだ」 「……ァっ」 喉の奥で小さな声を上げた時には、仮面を外されていた。 真っ直ぐなブラックダイヤの瞳が、俺を見つめている。 整然たる深淵の双眸に、俺の呼吸は絡め取られた。 「泣いていいんだよ」 ようやく気づいた。 頬を伝う熱い雫は、涙だったんだ…… 親指が目尻をなぞった。 「何度でも拭うから。お前の涙が全部流れて尽きるまで、そばにいる。 これからもずっと、悲しい時はそばにいて、ナツキを暖めてあげる。涙ごと、お前を抱きしめるよ……」 唇が重なって、抱きすくめられた。 俺は……… ハルオミさんを愛しているなんて、言えないよ。 夫婦らしい事は、なにもしていないから。 けれど、それでも…… この感情は…… 胸を引き裂いて、喉を押し潰す……この想いは…… あなたへの愛情が芽生えていたのかも知れない。 今となっては、遅いけど………

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