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第6話

『好きなんです。河西さんのことが』 その声が。 その言葉が。 頭の中を巡る。 事務所所属者のリストを眺めながら、『預かり所属 葉山慎吾』の文字を指でなぞる。 まっすぐなその表情が頭から離れない。 去り際の涙も胸を痛めつけるものでしかない。 腕を掴んででも引き止めたかった本心を隠して、これでいい、と、ひとり先日の出来事を納得させる。 それでも。 触れてみたいと、今更ながらに思う。 慎吾の触り心地の良さそうな髪の毛に。 きめ細かな指先に。 柔らかそうな、唇に…。 終わってしまうことが怖いなら、始まりがなければいい。 求めてしまうのなら、失わないようにすればいい。 慎吾の気持ちを拒絶しておいて、自分の想いは歯止めは効かない。 デスクに置いてあるブラックコーヒーを一口飲んでは頭を上げる。 痛い。なにもかもが。 溺れるような恋しか知らない俺のことだ。 傷つくのだけは絶対に嫌だ。 『俺は君を愛していない』 その返事は予想していたものではあったが、思いの外心に重みを感じた。 思わず涙してしまったことを後悔している。 気を遣わせてしまった。 俺は成人したばかりだが、恋愛経験が少ない。 河西さんのような年上を好きになったことはなく、落ち着いた雰囲気にも惹かれた。 自分の一方的な気持ちを押し付け、困らせるつもりなんてなかった。 だが、結果的にはそうなってしまったことが悔やまれる。 「どうした。突然家に来たかと思えばらしくない」 親友の圭斗に話を聞いてもらいたくて家を訪ねたが、ここ最近はどうもぼんやりしていていけない。 「圭斗、俺の話聞いてくんない?」 少しおどけたように言えば、「構わないが」という返事をもらったため吐き出す。 「フラれたんだ、俺」 ひどく震えた声だった。 声を売る仕事をしているにも関わらず、自分でも聞いたことのないような、そんな声。 「…気になっている、と言っていた人か?」 「そう」 変わらない無表情で問うてきた圭斗に小さく頷く。 「それは…つらいな」 俯いてしまった圭斗を見て、「圭斗がフラれたわけじゃないだろ」と言って笑う。 「いや、想いが通じないのはつらいことだろう」 「まぁ…そうだけど」 「男なんだったな」 遠慮がちなその問いに頷く。 「圭斗も知ってると思うよ。うちの事務所のマネージャー。河西さん」 そこまで言えば、圭斗の目が少し見開かれる。 「河西さん…。悠弥さんの?」 「そうそう。あ、仲野さんと圭斗って仲良いんだっけ?」 「いや…悠弥さんとは付き合っている」 真剣なその声に、俺は言葉を失う。 「悪い。タイミングを逃していてな。河西さんか…」 「え、仲野さんだったの?失恋したかもって言ってたの…」 「あぁ。正式に付き合っているが…その専属マネージャーか…」 呟いて顎をさする圭斗の告白に驚いたが、羨ましかった。 そこで少しだけ、圭斗から惚気を聞いた。 仲野さんはひどく照れ屋であるだとか。 今度初デートに行くだとか。 素直じゃないところが可愛いだとか。 羨ましさは増し、劣等感を覚えた。 俺だって河西さんと…。 そんな感情が湧き上がってくる。 河西さんが好きだ。 河西さんじゃないならいらない。 そんな悔しさばかりを抱いて帰宅することとなったが、圭斗にとってはいいことだよな、と前を向くことにした。 悠弥を自宅へ呼んだ。 仕事のことで深く話し合う必要があったからだ。 3時間意見を出し合い、話し合いは終わった。 「河西さん、葉山のことフったらしいですね」 悠弥の言葉に、片付けようとしていたティーセットが手のひらから滑り落ちるところだった。 「え…?」 「圭斗から聞いた。圭斗、葉山と仲良いらしくて」 「あ、そうなんだ?」 平静を取り繕っては先ほどの作業を再開する。 「それなんじゃないんですか?最近河西さんの調子が悪いことの原因って」 図星を付かれて押し黙る。 「ほんとは好きなんでしょ?なんとなくですけど、そんな気がします」 「そんなことないよ。愛していないから愛していないって言っただけ」 ティーセットを洗いながら答える。 胸がズキズキと痛い。 「最近、心ここに在らずって感じじゃないですか。それしか考えられないです。俺には偉そうな口叩いておいて、自分は逃げるってずるくないですか?」 「……ずるい、か。そうかもしれないね」 水を止めてソファに戻る。 「慎吾には…悪いと思ってるよ。…いや、悠弥にも。ごめん、嘘をついた」 「嘘?」 「慎吾のことを…愛していない…って…言った」 自分の気持ちをも騙そうとするその言葉。 愛していないなんて嘘だ。 考えないようにすればすればするほどに深みにはまる。 彼の笑顔に惹かれた。 ほんの小さな種だった。 それが蕾になり花開いたことに、本当は気づいている。 「どうして付き合わないんですか?好きなのに」 心底不思議そうな悠弥の視線を浴びながら言葉を紡ぐ。 「好きだからだよ。逃げてるだけ。向き合いたくないだけ」 「…河西さん」 しっかりと、凛とした声で呼ばれ、思わず悠弥の目に視線を移す。 「俺はがんばりました。これから圭斗とのことでかなり努力するつもりです。俺にそうさせたのは誰ですか?」 「……俺、だね…」 「なら、河西さんもちゃんと向き合ってくださいよ。何を怖がってるのかは知りませんけど、河西さんが幸せになれるならそれを応援させてください」 力強い悠弥の声に涙が滲むのがわかった。 「…ん、そうだね…そのほうが楽…かな…怖いんだよ、愛した人がいなくなることが。愛した分、そのときがつらいから…」 涙声で伝えれば、悠弥は優しい声で言った。 「葉山を信じてやってくださいよ。いなくならないかもしれない可能性も見てやってください」 全ての強がりが消えるようだった。 堰を切ったように涙が溢れては止まらず、ただただ、慎吾へのこの気持ちを大切にしたいと思った。 慎吾に、ちゃんと伝えよう。 好きだと。 愛していると。 一度、拒絶してごめんと。 俺の大事な人になってほしいと。 今度は俺から、想いを。 愛しているから、この手を握ってはくれないか。

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