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第8話

「よ、悠弥。最近どうよ?」 とある作品のアフレコ現場。 よく知った声に名を呼ばれて振り返る。 「翔太!久しぶり…ってほどでもないか。最近…まぁ、見ての通り忙しいよ」 カラッと笑って言えば「自慢かよ」と少し笑う声が返ってくる。 こいつー幾部翔太(いくべしょうた)は、ここ数年で仲良くなった仕事仲間だ。 若手No.1セクシーボイスと称される、麻川オフィスの期待株だ。 「そうだ。この後まだ仕事あるか?最近全然飲みに行ってねぇじゃん。話してぇこともあんだよ。どうだ?」 「あー…ごめん。この後は仕事はないんだけどさ、ちょっと予定入ってて…」 「予定?そうかよ。んじゃ、まただな」 「ごめんな!また飯行こう!」 残念そうな表情の翔太に、申し訳なさが迫り上がってくるが、今日だけは外せない。 圭斗と初デートなのだ。 付き合うまではなんでもなかった圭斗との約束も、今では鼓動が速まるばかりで。 早く会いたいのに緊張がひどく、収録に集中できなかった。 約束の時間は夜7時。 けれど、やはり仕事が押したために、待ち合わせ場所に到着したのが7時半。 「圭斗…ごめん、遅くなった…」 時間を確認しながら待っている圭斗を見つけ、思わず小走りで駆け寄り謝る。 「悠弥さん、お久しぶりです」 いつもの無表情のまま、すっと視線をこちらに寄越した圭斗は、そんなことは気にしない、とでも言うかのように優しげな声でそう言った。 「あ…え、と…久しぶり…」 好きだと伝えたあの日から、忙しくて1度だって会えていない。 電話は毎晩していたけれど、顔が見えない分緊張感は薄かった。 この男はこんなにかっこよかっただろうか。 思わず逸らした視線を戻すこともできず、「行くか」と小さく呼びかけて歩を進めれば、「はい」とそれに続く圭斗が擽ったく思えた。 「悠弥さん、観たがってた映画ですけど…」 「綾部さん主演のやつな!俺はオーディション落ちたんだけどさ、やっぱ綾部さんの出演作は逃せないっていうか!」 綾部俊(あやべしゅん)さんー俺がこの世で最も尊敬している役者で、声優を中心に活動されている方。 俺が中学生ながら声優の道へ進もうと決心するに至った直接的存在。 憧れで、聖域。 今でも軽々しく言葉をかけられないその人とは、ビジネスライクよろしく、打ち上げでしか仕事以外の話をしない。 そんな綾部さんが主演のアニメ映画が放映されているため、デートはどこがいいか、と聞かれたとき、思わず「映画」と答えてしまったのだ。 「…悠弥さん、綾部俊さんに憧れて声優に、って…ファンの間では有名ですしね」 「え、そうなのか?」 「そうですよ。自分で自分のこと検索しないんですか?……エゴサーチ?でしたっけ」 少し拗ねたような声をしている圭斗に疑問符を飛ばしながら、右手を緩く振った。 「しないしない。……まぁ、気が向いたら今度してみようかな。圭斗のを」 「俺?まだほとんど知られてないはずですけど」 「わかんないじゃん。ゲスト出演だろうが番組レギュラーだろうが、声がいいとか芝居が好きとか、いろんな理由で名前は知られてくもんだしな」 当たり前のようにカラッと笑って圭斗を見れば、少しの間意識して顔が見られなくなっていたことを思い出したが、圭斗が薄く微笑んでいることに気づいてじっと見つめてしまう。 「やっと、目を合わせてくれましたね」 「え…」 「全然こっち見てくれなかったんで」 「いや、えっと…ごめん…」 付き合い始めてから、圭斗は少しずつ、自分の話をしてくれるようになった。 ご家族は両親の他に妹さんがふたりで、新潟県出身だとか、榎元大学法学部に在籍していて、なぜ法学部を選んでしまったのだろうかと後悔しているのだとか。 耳に馴染むようなその声が心地よくて、毎晩電話を切りたくないと思ったほどだ。 映画館は待ち合わせた場所の近辺にあり、次の上映時間のチケットを購入する。 「圭斗、何飲む?」 フードコーナーに並び、後ろからついて来る圭斗を振り返って問う。 「アイスコーヒーで」 「ん、アイスコーヒーな」 少し暖かくなってきた気候の中で、自分はどれを飲もうかと悩む。 ポップコーンや飲み物を買い終えた人たちが、次々と列から外れていく。 「アイスコーヒーのMとレモンティーのMをひとつずつ」 注文した商品を復唱しながら会計を促してくる店員に代金を支払おうとすれば、後ろから「俺のはいいですよ」という声が入る。 「え…」 口を挟む間もなく1000円札を出され、そのまま会計を済まされてしまう。 アイスコーヒーとレモンティーを受けった俺は、すぐに圭斗に噛み付く。 「圭斗!お前後輩なんだから奢られてろよ!」 「後輩?」 凄みのある声を絞り出した圭斗に少し萎縮する。 「俺はもう悠弥さんの恋人ですよね。それとも、悠弥さんの中では俺はまだ他の後輩と同じですか?」 鋭い瞳に言葉を失う他なく、視線を逸らす。 「そ…じゃない、けど…」 「確かに仕事では先輩後輩ですし、知名度だって比べものになりません。けど、俺たちは同等の立場にいるんじゃないんですか」 「そうだな…うん、悪かった」 「仕事以外で俺を後輩扱いするのはやめてください。プライベートでは恋人ですから」 反省して俯いてしまった俺の頭をポン、と撫で、優しい声を響かせる圭斗に胸が熱くなるのを感じた。 「行きましょう。こっちです」 顔を見れないまま、圭斗が歩く方向へ続く。 恋とは、こんなにも難しいものだっただろうか。 想いが通じたならば、そこで終わりというわけではないと知ってはいるが、自分の感情がコントロールできない。 その感覚に困惑する。 目を見るのがこわい。恥ずかしい。勇気がいる。 でも、目が合えば嬉しい。 こんな感情、久しく感じていなかった。 いや、もしかすると初めてかもしれない。 指定席に座って上映を待つ間も、チラチラとしか圭斗の顔が見られなかった。 「面白かったな、やっぱ!」 あれほど圭斗の顔を見るのが緊張するだとか思っておきながら、映画を観終われば顔を見ながら口が動く。 まるで綾部さんの芝居の魅力に取り憑かれたかのように。 時間の関係でデートは映画のみだが、その家路で熱いままの気持ちを吐露していく。 「やっぱ綾部さんの芝居って深みがあるっていうか説得力があるっていうか!あとあの主人公ボイスは反則だよなぁ。今回の役の特徴をよく掴んだ口調もさすがだし、ほんとに綾部さんは…」 「悠弥さん」 言葉を途中で遮られて、ゆっくりと圭斗をのぞき込めば、少し苛立った表情で口を開く。 「あなたが綾部さんを尊敬していることは知ってます。でも、ちょっと不愉快です」 「え、」 『不愉快』 その言葉がぐさりと胸に刺さる。 ナイフで抉られたかのように深く、痛く。 言葉は失われた。 初デートで、圭斗をそんな気持ちにさせてしまった事実がつらい。 そんな顔をさせたかったわけじゃない。 でも、結果はこれだ。 嫌われたかもしれない。 そう思うと、なんと言葉を紡げばいいのかわからなくなった。 「悠弥さん、これは俺の醜い嫉妬ですけど…心の狭い俺でも、好きでいてくれますか?」 そっと手のひらに触れてきたのは、圭斗の手のひらで。 今、辺りは暗いと言えども、公共の場で男同士が手を繋いでいるのだと思うといたたまれない。 そして心臓の鼓動が大きすぎて息苦しい。 「そんなの…好き、に決まってるだろ…」 そう言えば、「ありがとうございます」と、柔らかな声が耳を擽った。 黙って俺の家まで歩く。 言葉が見つからないが、なければならないとも思わなかった。 繋がった手のひらは暖かく、圭斗の温度を知れたことが嬉しくて。 「圭斗、ここでいいよ。ありがとな」 俺が住むマンション前まで当然のように送ってもらい、なんだか女の子扱いされてるな、とぼんやりと思ったが、これが圭斗の優しさなのかもしれない、と考えればそれも嬉しかった。 「今日は楽しかった。ここまでありがとうな。大学もバイトもレッスンも仕事もあるんだし、しっかり寝ろよ?」 『おやすみ』 その一言を言おうとしたところで、繋いだ手を引っ張られてよろめいたかと思えば、勢いで圭斗の胸元に体を預ける形となってしまう。 急いで離れようとするも、そのまま背に両腕が回ってきたために身動きが取れない。 繋がっていた手のひらは、一瞬にして離れていた。 「圭…斗?」 「悠弥さん、好きです」 「え、うん…知ってる…けど」 後頭部を撫でられ、静かに圭斗を見つめる。 視線が合わさった途端に、唇に柔らかい感触。 それが圭斗の唇だと気づくのにそう時間はかからなかった。 数秒間の触れるだけのキスは、甘い痺れを孕んでいた。 「圭斗…」 唇が離れ、回らない頭で思考する。 キスって初デートでするものだっけ…? 答えは出ないが、ふらふらする視界には圭斗しかいない。 「嫌でしたか?」 頬に触れる圭斗の手のひらは優しく、戸惑っている俺の思考をなだめてくれているようだった。 「…っ、嫌じゃ、ない…」 「よかった」 そう言って微笑む圭斗はずるい。 俺はずっと、圭斗の笑顔が見たかったのだから。 嬉しくなってしまう。 何も言えなくなってしまう。 「悠弥さんも、体調に気をつけて。おやすみなさい」 そう言って静かに髪の毛を撫でたかと思うと体を離し、駅に向かって歩き出した。 結局、俺からは『おやすみ』と言えなかったけれど、初デートで得たものは大きかった。 圭斗を大事にしたい。 もっとたくさん、圭斗に好きだと伝えたい。 そんな気持ちで胸がいっぱいになり、熱くなった頬をどうすることもできずに自宅まで急いだ。 まだまだたくさん時間はある。 圭斗とたくさんの時間を共有したい。 やりたいことがたくさんあるのは当然で、それをひとつずつ叶えていければ幸せだろうな、と思った。

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