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第14話

―8月15日(火曜日)21時 生田神社前 東急ハンズで警備担当者と雑談したあと、生田神社の境内に入った。アイフォンの通知に気づいて留守電を聞く。履歴に残るのは見知らぬ番号。留守番サービスを呼び出した。 『……総悟? 久しぶり。電話番号変わってないんやね』 瞬間、時間が巻き戻ったような気がした。 すぐにかけ直す。プルルルル、一回のコール音がやけに長い、早く、早く早く。 「総悟?」 「ミツル、お前、」 「今な、神戸におんねん」 「どこ?」 「北野のスターバックス」 「すぐ行く」 言い終わる前に走り出していた。赤信号にイラつき、クラクションを鳴らされながら車の間を縫うように進む。北野坂を走っていると、駅から高校までの通学路を思い出した。よく瑞樹とプリンを賭けて競争したっけ。異人館を改築した特徴的な建物が見えてきてピッチを上げる。店の前にはコンビニのビニールを持ったミツルが立っていた。 「ほんまに、すぐに来た」 肩で息をする俺に笑いながら水のペットボトルを手渡す。そこには、あの頃と変わらないままのミツルの姿があった。 「いつ、帰ってきたん?」 「うん、夏のちょっと前かな」 「はよう連絡してくれたらよかったのに」 「ごめん。なんか忙しくて」 「仕事?」 「うん」 北野天満神社の南にある石畳の広場に座った。街燈の明かりを頼りにスケッチをする爺さん、夜景を見下ろしていちゃいちゃするカップル、忙しげに騒ぐアジア系の外国人グループ。人懐っこいハチワレが尻尾を立ててすり寄ってきて、ミツルの指先をふんふんと嗅いでにゃおんと鳴いた。俺の手にはペットボトルとローソンのからあげクン。部活の帰り道みたいやな、ってふたりで笑った。 「どこに泊まってるん」 「ターミナルホテル」 「実家には?」 「顔だけ、出した」 「……そっか」 訊きたいことは山ほどあるはずなのに、ちっとも言葉が出てこなくて、なのにこの空間が心地よくて。部活仲間の近況についてや、潰れてしまったお気に入りのパン屋の話なんかしていて、いつの間にか時計は24時を周っていた。 「ぼく、そろそろ、戻るわ」 「じゃあ俺も」 三ノ宮駅までのまっすぐな下り坂をゆっくりゆっくり下って行く。その間も映画の話だとか、新しいヘッドフォンの話ばっかりしていて。肝心なことなんて、なにも言えなくて訊けなくて。 「今日は、突然呼び出してごめん」 「なあ、瑞樹も今ちょうど神戸におんねん。呼び出して、もうちょっと話さへんか?」 「へえ、そっか。さすが安藤くんやな」 「……どういう意味?」 「ううん、なんでもないで。また今度一緒に、部活に差し入れでも行こ」 ホテルの部屋の前でひらひらと手を振られて、帰るように促される。 我慢できなくて、その腕を掴んだ。 「ミツル」 「うん?」 「触りたい」 「……無理や」 カードキーを奪って扉を開ける。そのまま部屋に押し込んだ。 「おまえに、触りたい」 「総悟、ぼくは、」 答えなんて聞く気もなくて唇に噛みついた。抵抗する舌を掴まえて呼吸を奪った。あの頃と変わらないミツルの味がする。 「……総悟、いやや」 「そんな顔して、イヤとか言うなや」 小柄なミツルを組み敷くなど容易い。そのままベッドに押し倒すと潤んだ目に安堵し、耳たぶを食んでシャツを捲った。ミツルの弱い所なら俺は全部知っている。そのはずなのに、ベルトを外すと臍の下に俺の知らないものが見えた。 「……ミツル、これ、」 「うん。タトゥー」 「なんで? なんでこんなもん」 「パートナーとお揃いやねん」 身体の熱量が一気に下がっていく。今でもミツルに愛されているんじゃないかと、自惚れていた。 ほんの小さな、3センチほどの蜥蜴の入れ墨が体温を奪っていく。「……んでや?」 「え?」 「なんで? なんでまた俺の前に現れたんや? おまえのことは全部覚えとう。初めて会うたときのことも、おまえが俺にかけた言葉も、全部、全部覚えてるんや。お前を忘れるのに時効なんかあらへん。忘れることなんかできるわけない。ずっと、ずっとずっとおまえのことが好きやった。せやのに、せっかく仕舞いこんどったのに、忘れようとしとったのに、なんでまた引っ張りださせるんや?」 「総悟……」 「おまえやないとアカンねん。おまえがおったら、もうおまえしか好きになられへん。おまえが……」 すっかり大人になった気でいたのに俺は、そう言いながらぼろぼろと涙を零していた。 「おまえのことがずっと、ずっと好きやった」 あの時、大人ぶって全部分かったようなふりをして別れた。だからずっと引きずっていた。 ぐちゃぐちゃになった顔で脳のなかに湧いてくる言葉をそのまま吐き出したら、胸のつっかえが緩んだ気がした。 本当は離れるときにこう言うべきだったんだ、だから終われなかったんだ。 「総悟」 ミツルが俺の手を握る。情けなくて唇を噛んだ。 「カッコ悪いとこ、見せてごめん」 「あの時、そんなふうに言うてくれたら、ってずっと思ってた」 「ミツル……」 「ううん、総悟はいっつもぼくの気持ちばっかり考えて、自分のことはあと回しやったもんね」 そういうミツルも泣いていて、でも笑っていて。 「やっと、これでちゃんとさよならできるね」 「……ごめん。ほんまに、悪かった」 「ほんまや。いや、て言うたのに。おまわりさん呼ばな。あ、総悟おまわりさんやったな」 肌蹴たシャツを直しながらミツルが笑う。ちくりと胸の奥が痛んだ。 「……ええ人、見つけたんやな」 「うん。尊敬しとうし、仕事も一緒にしてるんや」 ミツルは落ち着いていて、そしてとても自信があるように見えた。 あの朝、電車のなかでおどおどしていた詰襟メガネの中学生とは、全く別人になったミツルがそこには居た。 「ミツル、」 「なに?」 「今、幸せなん?」 ひと呼吸置いてから、ミツルはまた笑う。 「幸せがどんなもんかはようわからんけど、イヤなことはなんにもない」 「そっか」 「うん。総悟はどうなん?」 「テキトーかな」 「なにそれ? わっるいなあ」 でもおまえしか、ちゃんと好きになったことはないんやで。そう言おうとしてやめた。 「ちょっとだけ、」 「ん?」 「ちょっとだけ、好きになりかけとうヤツならおる」 屈託なく笑うナオトの顔が頭に浮かんだ。 「まだどうなるかわからんけど」 「うん。でも総悟やったら絶対うまく行くと思うで。昔っからモテモテやったもんなあ」 「せやで。今もモテモテやから、つい調子に乗ってしもて……すみませんでした」 大袈裟に頭を下げて謝罪の言葉を口にする。 「なあ、総悟」 「ん?」 「ぼくな、もうアメリカに永住しようと思っとうねん。せやから、最後に神戸に来てん」 ミツルは帰ってきた、とは言わなかった。目の前にいるのに、もうミツルの心はここにはない。そう突きつけられた。 「そう、か」 「会えてよかった」 「うん」 「ハグしていい? あの時みたいに」 そう言ってミツルは俺を抱きしめた。それから俺の背中をトントントンと3回叩いた。 「ほな、さよならや、総悟」 「元気でな」 部屋を出て、後ろ手で扉を閉めた。カチャンとオートロックが閉まる音がした。 エレベーターのなかで、すっかり温くなってしまったペットボトルの水を口に含んだ。 口のなかは、まだ少しだけミツルの味がした。

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