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第19話
―8月26日(土曜日)16時
芦屋市・北島一誠宅
「はい?」
JR芦屋近くには邸宅が連なる一角がある。初めて来たミツルの実家もそのなかに構えられていた。歴史を感じる日本家屋には重厚な門構えが設えており、鹿威しが聞こえてくるなかほどには、立派な日本庭園があるんだろうと推測できる。
インターフォンを晴らすと男性の声で返事があり、ほどなく門扉が開けられた。現れたのは60手前には見えない、若々しく精悍な顔立ちの男性、ミツルの父親・北島一誠に間違いなかった。
「兵庫県警の如月と言います」
「ご用件は?」
「息子さんの、ミツルさんの同級生です。お話できませんか」
「そちらは?」
「警察庁の武内と稲垣です」
手帳を示す俺たちの顔を見回してから、俺に向き直った。
「君は、見たことがある。ボート部だったんじゃないか?」
「ええ」
「そうか、高校の、」
段ボールがそこここに積まれた、何もないリビングに通された。
「引っ越し、ですか」
「買い手が決まったんでね。来週末には出ないといけないんだ。立たせたままで申し訳ないね」
「いえ」
「以前にもお話したと思うんだが、」
そう言ってちらりと稲垣に目をやる。
「3月の初めにふらっと帰ってきたんだ。義母の、前妻の母親の葬儀以来だから8年ぶりくらいか」
「どんな話を?」
「元気にしているのか? 仕事はどうなんだ、とごく普通の会話だ。まるで旧友にでもあったかのような。親子には思えないかもしれないがね」
そう話しながら、時折かちかちと指を打つ。その内容と表情とを武内が具に観察する。
「あの日、初めて一緒に酒を飲んで、夜遅くまで話した。今まで、あんなにミツルと話したことはなかった。子どもの頃以来だった。これでも、まだ小学校低学年のうちはふたりで丹波まで行って虫捕りをしたり、須磨に釣りに行ったりしていたんだよ。中学受験のために塾に行くまでは、ね。だから久しぶりにミツルに会えて、いろいろと話せて本当に、とても楽しかった。だが朝起きるともうミツルの姿はどこにも無くて、私のPCがなくなっていた。それだけだ」
淡々と語る社長の顔は穏やかで怒りの色など、どこにも見当たらなかった。
「もういいんだ。私が全てを失うことで、会社も社員も守ることが出来る。だからもうほおっておいてくれないか」
「北島さん、これは民事ではなく刑事事件です。あなたの息子さん、北島ミツルはサイバーテロリストなんですよ?」
「おい、稲垣、」
「あなたの会社のことだけではありません。彼らをこのまま野放しにしておいていいんですか?」
「おまえなあ、いいかげんに、」
稲垣の胸倉を掴みかけて武内に抑えられた。
「如月さん、抑えてください」
「離せ」
「如月さん!」
武内に制止され、稲垣の台詞を反芻する。サイバーテロリストって、なんだよ…。
「……なんだよ、サイバーテロリストって、そんなこと、ミツルにできるわけないだろ…」
「如月さん……」
「待ってくれ。テロリストとはどういう意味だ? ミツルはいったい何をしているんだ」
「『シヴァ』という国際ハッカー集団をご存知ですか? ミツルさんはその中心メンバーだと思われます」
「まだそう決まったわけじゃないだろ!」
「『シヴァ』。私でも聞いたことがある。世界中の大企業にハッキングを繰り返しているとか、」
「そうです。ランサムウェアの感染、機密情報の入手、M&A情報を悪用したインサイダーなど、あらゆる不法なIT錬金術を使用しています。ですが残念ながら組織の全容については、ほぼ情報がありません」
「ミツルが、それに関与していると?」
「我々はそう推測しています。ご協力、願えませんか?」
北島社長は目を閉じて大きく息を吐いた。
「如月さんと、ふたりだけにしてもらえませんか?」
「え?」
意外な申し出に稲垣と武内が顔を見合わせる。
「きちんとお話ししますので、5分だけ。お願いします」
「わかりました。大丈夫ですよね、如月さん?」
「あ、ああ」
稲垣が、なんども振り返る武内を諌めながら部屋を出る。
北島社長はドアが閉まるのを確認して、口元を緩めた。
「佐紀子が亡くなったあの事件のあと、勉強だけに没頭してまるで抜け殻のようだったミツルが、高校に入ってからは、また昔のように明るくなった。私との関係は戻らなかったが、生き生きと暮らしていているように見えた。如月君、君のおかげだったんだな」
「俺たちのことを、ご存じだったんですか…」
「いなくなった日にあの子が忘れていった、旧い携帯電話を見たよ。高校生の時に使っていたものだ。今まで、人づてに聞いていたミツルの高校時代のエピソードのすべてに、一気に色が付いた気がした。あの子は、ちゃんと青春を過ごせていたんだと、安心したよ」
「ミツルとお母さんの事件のことはついさっき、聞いたばかりなんです。俺はなにも知らなくて」
ごそごそと袋のなかから紙コップを取り出した。キッチンの蛇口から水を注いで一気に飲み干すと、堰を切ったように言葉を吐き出す。
「妻は、佐紀子は真面目なしっかり者でね。そのころの私は仕事のことで頭がいっぱいで、息子の、ミツルのことは妻に任せきりだった。感謝はしていたつもりだったが、確かに押し付けていたのかもしれない。君たちにも、いつかわかるだろう。中学受験というのは母親と二人三脚だ。そして塾の先生も周りのママ友と呼ばれる人たちも、みんなその狭く、小さな価値観のなかだけで生きている。たかが中学受験に失敗した? そんな簡単なことじゃない。佐紀子たちにはすべてだったんだ。自分も、妻も捨ててすべてを母親としてミツルの受験に懸けていた。あの時、佐紀子はすべてを失ってしまったと感じたんだ。なのに私はそのことに気付かず、『高校受験でリベンジすればいい。大したことじゃない』などと気軽にあしらってしまった」
確かに、そんなことは俺の理解の外だ。
「佐紀子が亡くなったあと、本当にミツルの心は遠くに行ってしまった。取り戻さないといけないとは思っていたんだが、忙しさにかまけてそれさえもしなかった。父親失格だ」
やり手の2代目社長。世間の評判も悪くない、いわゆる勝ち組エリートだ。なのに、目の前の男はごく普通のただの父親で、後悔を抱えて過ごしている。そして同時に、ミツルはこんな父親の姿を知っていても止めなかったという事実が付きつけられる。
「……もうひとり、息子さんがいますね」
「ナオトのことか?」
「はい」
「ナオトとは血の繋がりはない」
「え?」
「文香は私の幼馴染だった。家が近所で母親同士の仲が良く、一人っ子だった私にとって妹のような存在だった。彼女は妊娠中に夫に裏切られ、シングルマザーになり途方に暮れていた。最初は本当に支えたかっただけなんだ。それがいつの間にか愛情に代わり、私も支えられるようになっていた。父親の顔を知らないナオトは、私によく懐いていたよ。親子でさえお互いにうまく成長できるとは限らないなら、血の繋がりなんてどうでもいい。ナオトを愛そうと思った。思えば、ミツルの代わりにしようとしていたのかもしれない。それに、私には後継者が必要だった」
「そんな勝手な……ミツルの代わりに?」
「勝手なのは重々承知しているし、君に理解してもらうつもりもない。ただ、代々事業を行うというのはそういうことだ。なのに文香は亡くなり、ナオトまで離れていってしまった。だがもう、もしナオトが戻ってきても、なにもしてやれない」
北島社長はポケットの中からなにかを取り出し、俺に手渡す。
「ミツルがアメリカで使っているという名刺だ。フリーのシステムエンジニアだと言っていたから、もしかしたらこの番号なら繋がるかもしれない」
「ありがとうございます」
「如月君、」
「はい」
「君は、ミツルとなにを話したんだ? その、失礼でなければ」
「俺、振られたんですよ、ミツルに」
笑いながら話す俺に北島社長は、驚いた表情を見せる。
「それで、あいつに今は幸せなんか、て聞いたら『今はイヤなことはなんにもない』と言っていました」
「そうか。……ありがとう」
頭を下げて部屋を出た。
「如月さん」
「署に戻るぞ」
俺が渡した名刺を見て稲垣がタブレットを取り出す。車に滑り込むと武内が赤色灯を取り出した。
「本部には先にデータを送ります。我々も急ぎましょう」
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