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第23話
―8月29日(火曜日) 11時
神戸市中央区 某弁護士事務所
「北島が中受に失敗したこと? はい、めっちゃ覚えてますよ」
もう記録が残っていない、と塾は非協力的だったが、運よく小学校の同級生の中から、北島と同じ塾に通っていたという弁護士の男性に会うことができた。
「アイツは、塾の内部テストやったらいっつも一番やったし、全国模試でもベスト5から落ちたことがないくらい優秀でした。せやから、もちろん灘も余裕で通るんやろうな、て思ってたんです」
15年も前の話だというのに、その田中という男性はすらすらと、まるで昨日のことのように話し出した。
「灘の入試ってちょっと変わっていて一日目が算国理で、もちろん問題は変わるんですけど二日目も算国をやるんです。俺は北島のうしろの席で、一日目が終わったときにアイツは『自信ある!』って、めっちゃ喜んでたんです。俺はちょっと出来が悪かったんで、悔しいなあと思いましたよ。だけど二日目の朝は、校門の前で会った時からずっと様子がおかしくて、『どうしたん、大丈夫?』って聞いてもなんや上の空で。教室に入って、問題用紙が配られて、算数だったんですけど、はじめ、の声がした途端、机に突っ伏して泣き出したんです」
武内のペンが止まる。
「泣き出した?」
「はい。最初はわからなかったんですけど、だんだん、ううう、というか声を殺して……でもずっと泣いていました。試験監督も気にしていて、途中で『体調不良ですか?』なんて声を掛けたりしていましたけど、何も答えないで……ずっと」
「泣いていた」
「はい。全部終わって、俺が声を掛けたら『誰にも言わないで』って、」
「誰にも? 泣いていたことを?」
「はい。だから北島が落ちたって聞いてみんな驚いていました。泣いていたことを知っていたのは、あの教室で試験を受けていたなかのごく一部で、他には同小も同じ塾のコもいませんでしたから」
「一日目は普通に受けていたんですよね?」
「ええ。様子がおかしかったのは二日目だけです」
一日目のあとは上機嫌だったのに……?
「じゃあ一日目の試験が終わった後に、なにかがあったってことか」
「心中未遂と関係ありますかね……それで、一日目の試験のあとは、みんなまっすぐ家に帰るんですか?」
「はい。あ、でも北島は、自習室に寄って帰るって言っていました」
「自習室?」
「西宮北口にある、塾の自習室です。塾生は自由に使えるようになっていて。でもさすがにそんな日は、みんな行かないんですけど」
「どうして、行ったと思います?」
「北島と一番仲の良かった算数の先生が、その日は自習室の担当だったので。一日目の試験がうまくできたことを報告しに行くんだと言っていました」
そこでなにかがあった。間違いない。胸糞悪い妄想が、頭に浮かんで離れない。
そしてそこまで話すと、彼は急に神妙な面持ちになった。
「刑事さん、俺は、このことを話すのは今回が初めてなんです。北島に二日目のことは絶対に言わないでって言われていて、だから言っちゃいけないって……塾の先生にも、北島の親にも言いませんでした。でも、あんなことになるなんて……。俺があのとき話していれば何か変わったんじゃないかってずっと思っていて。俺は、俺は間違っていたんでしょうか?」
握りしめた手の平が小さく震えていた。武内が心中未遂の話を出した瞬間に、彼の表情はみるみる曇っていった。もしかしたら、彼はずっとこのことを気にしていたのかもしれない。きっと他人の気持ちを慮れる、いい弁護士になれるだろう。
「大丈夫です。あなたは間違っていません。ありがとうございました」
武内とふたりで事務所を後にする。ビルから一歩外に出ると、真上の太陽がアスファルトをじりじりと照りつけていた。
「もう一回あの塾の担当者、突っつきに行くか」
「同感です」
痛みにも似た強い熱風が頬を撫でて、一瞬で汗が噴き出してくる。そのまま阪急電車の三宮駅に向かって走り出した
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