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第24話

―9月1日(金曜日) 10時 生田警察署 「……頭がまっしろになるって、こういうことなんだなって思ったよ」 迷って迷って、全員を部屋から出し、ふたりだけで話した。北島にとっては思い出したくもない過去の出来事を、遡って突きつけていた。 「二日目の試験を受けたことも、実はよく覚えてないんだ。次に記憶がはっきりするのは、涙を流した母親に、首を強く絞められたときのことだから」 あの日、試験が終わって向かった塾の自習室で何があったのか。 責任者は堅く口を閉ざしているが、稲垣が当時のことを知る古参の事務員からどうにか聞き出すことができた。 ―― 「レイプ…」 「たまたま早く着いた遅番の担当者が見つけたそうです。かなり酷くされたようで、怪我も、」 「なんだよ、それ……信頼していた先生から、だなんて」 「すぐ親に連絡しようとしましたが、本人が言わないでくれと強く懇願したらしく」 「警察どころか、保護者にも知らせずに揉み消したっていうのか。まだ子供じゃないか……」 「信じられませんが、そういうことになりますね」 ―― 父親はもちろん、母親にも言えなかった。しかしそのことが起因となり自身は深く傷つき、母親は壊れ、家族は崩れてしまった。 北島が自分を、家族を許せないという考えた理由が、やっと少しだけ、わかったような気がした。 「『試験が終わったらまっすぐ帰ってきてね』って。あの日、母にそう言われていたのに、ぼくは自習室に行ったんだ。……あの先生のことが好きだった。そしてその感情が特別なものだってことも、もうわかってたよ。でも、無理矢理あんなことされるなんて思ってなかった。恐ろしくて怖くて、抵抗なんて何もできなくて、ただ早く終わってくれって、ずっとそう思ってた。すごく嫌で、嫌で嫌で、なかったことにしたくて、誰にも言えなかった。でもレイプされたことを、二日目の試験が終わった時にでも、ちゃんと話せばよかったんだ。話していれば、母は自殺なんてしなかったかもしれない。そうしたら祖母だって、父を憎まなかったかもしれない。でもできなかった。母の言うことを聞かなかったぼくに罰が当たった。全部ぼくのせいなんだ」 「それはちが、」 「高校入試の日には電車のなかで痴漢にあってさ。参ったよ。人生を左右するような大事な時に限って、そんなことばかり起きる。さすがに、すごく落ち込んで、もう駅に着いたら電車に飛び込んじゃおうかな、なんて考えてた。そしたらそこに総悟が現れたんだ。高校の入学式で総悟を見つけた時は驚いたよ。入試が終わって1か月半の間、ずいぶん探したけど辿りつかなかったのに。そりゃそうだよね。てっきり年上だと思ってて、まさか同い年だなんて思いもしなかった。それから総悟を好きになって、総悟と一緒に生きたいと思った。今になって思い返してみても、高校生活の三年間はぼくにとっては宝物のような毎日だったよ。でも、やっぱり乗り切れなかった。死ぬ勇気さえないんなら、どうしてもこれまでの自分を捨てたかった。断ち切りたかった。そして父から、憎まれたかった。全部、ぼくの、」 「全部断ち切って満足した?」 「……よくわからない。でも後悔は全然ないんだ」 冷静になりたいのに怒りが込み上げる。もちろん北島に、ではなく。 たくさんの言葉を全部飲み込んで、それから告げた。 「日本でも司法取引は可能だ。合衆国ほど自在ではないけど」 「ぼくはアメリカに戻りたい。そのためなら何でもします」 藤田と草野を交え、今後の対応について説明した。北島は黙って、頷きながら聞いていた。 「わかりました。そのなかに、ひとつだけ付け加えて欲しいんだけど」 「できることなら」 「ぼくがあの日にされたこと、総悟にだけは言わないで欲しい」 「……おまえ、もしかして今でも、」 「お願いします」 そう言って北島は深く頭を下げた。 「会わなくていいのか」 「もう、全部リセットするって決めたんだ。これからはスティーヴを支えたい。ぼくにしかできないことだから、彼を支えて生きていきたい。総悟といると、……だめなんだ。どうしても頼ってしまう。そしたらリセットなんてできそうにないから」 「あいつなら、全部話しても、おまえを支えられるんじゃないか?」 「いいんだ」 もうこれ以上俺がかけるべき言葉はない。北島はお願いします、ともう一度頭を下げた。 「わかった。絶対に言わない。その代わり、俺にもひとつだけ教えてくれないか。あの時、おまえが旧い携帯電話を忘れて行ったのは、わざと、だったのか?」 そう問うた俺に北島は口角を上げる。 でも、なにも答えなかった。 北島がパスポートとアイフォンだけを携えて、成田発ボストン行のボーイング787に乗るために東京へ向かったのは、その日の夜遅くのことだった。

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