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第7話 はじまり(3)

「どういたしまして」  しかし困ったな。英語ならいくらかわかるけれど、フランス語はそれほど知識がない。  どうやって会話をしようかと悩んでしまう。けれど彼はこちらの言っていることは、ほとんど理解しているように感じる。喋るのに慣れていないだけ、なのかもしれない。  郷に入ったら郷に従え、という言葉もある。なんとか日本語で会話してもらうほかないだろう。 「名前はなんて言うんだ?」 「……ナマエ、リュウ」  こちらの問いかけに彼――リュウは、まっすぐと茶水晶の瞳を向けてくる。それはとても純粋な瞳だ。無垢な動物に見つめられているような気分になる。 「そうか、リュウね。自分は宏武、ひ、ろ、む……わかる?」 「ヒロム、ひろむ」  小さく何度も呟いているうちに、名前の発音がよくなってくる。この調子で日本語も、話してくれるようになるといいのだけれど。 「なにかあればそう呼んでくれればいい。自分はほとんど家にいるけど、ここにいるあいだは好きにしてくれて構わない。帰る場所があるのなら、そうしてくれてもいい。あんたの自由にするといい」 「vous etes gentil(ヴゼットジャンティ)」 「ん?」 「イイ人ダネ」 「別にいい人じゃない。これは自分の癖だ」  ものを拾うのは、別に優しさからではないと思う。ただ目の前にあるから、それをそのままにしておけない気持ちになるだけ。  ある種の気まぐれのようなものだ。いまはただこの鬱陶しい雨を紛らわす、なにかが欲しかっただけ。 「リュウ、ここにいるあいだに日本語覚えてくれよ」 「Oui(ウィ)、コトバ、オボエル」  どうやらリュウは、ここにいることを選んだようだ。彼にどんな過去があるのかは知らないけれど、ここにいたいと思うのならばいくらでもいたらいい。  願わくば、憂鬱で退屈な毎日が、少しでも明るくなればいいなと思う。

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