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第51話 記憶(1)

 人はどんどんと客席に流れていくが、自分はその流れに逆らい近くのベンチに腰を下ろした。  両手で頭を抱えると、脈打つようにそこからどくどくと音が響く。思い出せない、思い出そうとすればするほど、気分が悪くなってくる。  冷や汗がにじんで気持ちが悪い。あの男が言っていたことは、一体なんなのだろう。  十年前、ピアノ、事件――駄目だ。なぜこんなにも思い出せないのか。  焦燥感が心の内に広がる。気持ちを静めようと、考えることをやめたら、少し気分が楽になった気がした。  しかしふいになにげなく顔を上げた瞬間、息が止まってしまいそうになる。  視線の先、窓の向こうに人がぶら下がっていた。首をだらりと下に向け、手足が脱力したようにゆらゆらと揺れている。  それはどう見ても、首をくくって死んでいるようにしか見えない。そうそれは首をつった男の死体だ。  そう思った瞬間、なにかが頭の中をよぎった。古いフィルムを巻き戻したような、不鮮明な映像だ。  男が笑っていた。穏やかそうな優しい目をした男だ。 「宏武」  その男は優しい声で自分の名を呼んだ。その声に振り返った自分が、ひどく喜んでいるのが感じられる。  これは敬愛、親愛、いや違うこれは、その二つに隠れた恋愛感情だ。自分はこの男に恋をしている。  そその男も自分を憎からず思っているのだろう。見つめる目も触れる手も、とても優しくて温かい。 「将継さん」  声を弾ませて、嬉しそうに名前を呼ぶ自分に少し驚いた。自分はあまり感情の波を揺らさない人間だったから、こんな風に明るい気質を持ち合わせているとは、思わなかったのだ。  青年らしく、明るくはつらつとした様子は、いまの自分からは想像がつかない。  だが間違いなく、これは自分なのだという確信も心にはあった。これは夢ではなく、記憶だ。  しまい込んでいた自分の記憶。

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