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第52話 記憶(2)
そこには常に優しいピアノの音色が響いていた。寄り添うように奏でられているのも、温かな音色のピアノだ。
どちらも甘く切ない心に響く旋律で、なんだかとても懐かしい気持ちになる。
二つの音色を聞いているうちに、ようやく過去の欠片を思い出す。そうだ、自分は確かにその手で楽器に触れていた。
小さな頃からピアノに憧れていた自分は、いつも学校の音楽室で鍵盤を鳴らしていた。
高校を卒業すると、貯金をはたいて電子ピアノを買ったが、音大に行く金はなく、仕事の傍ら小さな楽団に在籍して時折ピアノを奏でる、そんな毎日を過ごしていた。
そんな自分の前に現れたのが彼――将継だ。
当時、名の売れたピアニストだったにも関わらず、なぜかいたく自分の音色を気に入ってくれて、忙しいさなか直々にピアノを教えてくれた。
そのおかげでコンクールにも、何度か出たことがある。大きな賞は取れなかったけれど、小さなきっかけは少しずつ形になっていった。
「私の可愛い宏武、愛してるよ」
それと共に自分と彼の仲は親密になっていき、いつしかお互いを想い合い、愛を紡ぐ関係へと変わっていく。
二人でいると、心の中に満ちあふれるほどの幸福感が広がり、ただ傍にいるだけでも自然と笑みが浮かんだ。
ともに暮らすようになった頃には、幸せの絶頂にいるのではないかと思えるほどだ。毎日が楽しくて、音楽が伸びやかに響く時間に、心は弾むようだった。
けれどそれはつかの間の夢――
激しく乱れた映像に映し出されたのは、つり上がった眼に歪んだ唇、般若のような恐ろしい顔をした恋人だ。
勢いのままに手足を振り上げて、頭や顔、肩に背中、そして手や足まで殴りつけ蹴り上げてくる。
自分は悲鳴を飲み込み、その痛みに耐えていた。
そこに聞こえてくるのは、がむしゃらに鍵盤を叩いた耳に障るピアノの嫌な音。――ポツポツ、ポツポツと窓を打つ雨の音。
心地よさなどそこにはない。ただひたすらに恐れおののく、冷たい音があるだけだ。
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