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第53話 記憶(3)

「ああ、嫌な雨だ」  雨が降ると、手を痛めた日を思い出すのか、その人は人が変わったように荒れ狂う。  麗しい音を奏でられなくなったストレスが、目の前にいる自分へと向けられる。けれどその時は、彼が自分を恨むのも道理だと思っていた。  彼が怪我をしたのは、自分が原因なのだから、恨まれても当然のことだ。  雨の日、自分の代わりに事故に巻き込まれた彼は、片腕に大きな怪我をして、大切な手がピアノを弾けなくなってしまった。  日常生活に支障があるほどではないけれど、彼からピアノを奪うことは、命を奪うのと同じことだ。  彼が壊れ始めてから、自然とピアノから遠ざかるようになった。自分がピアノを弾くことで、さらに彼を追い詰めることになるからだ。  しかしピアノだけではなく、自分は彼からも離れるべきだった。 「宏武、この手が音を奏でないのならば、この世界はもう絶望しかない。私は楽になりたいよ」  ざわりと鳥肌が立つのが感じられた。しかし逃げ出そうと身体はもがくものの、手も足も縛られ、ばたつかせることすらできない状態だ。  悲鳴を上げたくとも、口は塞がれくぐもった声しか出てこない。  乱暴にシャツを裂かれ、無理矢理ズボンを引き下ろされた。止めどなく涙があふれるけれど、目の前の人は容赦なく自分にのし掛かってくる。  そこには痛みしかなかった。無理矢理こじ開けられ、引きつれるような感覚に激痛が混じり、声にならない声で叫んだ。  激しく揺さぶられるたびに、しゃくり上げるようにして泣いた。もうやめてくれと、何度声を上げようとしても、それが彼に届くことはない。  激高が収まるまで、ひたすらに耐えるほかなかった。  痛みで身体がガタガタと震え、何度も意識を失いそうになる。ようやく彼が自分の身体から出ていった時には、その身はまるでぼろ雑巾のようだった。

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